人間“萩野公介”として生きるということ

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「水泳が嫌いになったかもしれないです……好きじゃないです」

 僕を長年指導してくださっている平井先生に電話で伝えた瞬間。

 僕は一気に崩れ落ちた。

 いままで、誰にも伝えたことのなかったこの言葉。

 伝えることが許されないと思っていたこの言葉を、はじめて打ち明けたあの瞬間。抑え込んでいた感情が溢れ出し、全身に力が入らなくなった。

 自分の口から発した言葉が、音として自分の耳に伝わり、はっとした。

「自分はこういう状況まで来てしまったんだ」と。

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 これまで僕はずっと、自分の素直な気持ちを見て見ぬふりをして生きてきた。

 生後6カ月から水泳を始め、小学2年か3年生のころには、全国でも勝つのが当たり前になっていた。だからなのか、勝っても褒められることはなかった。褒められるどころか、ベスト記録まで、たった0.1秒でも遅ければ「なんで、この0.1秒が出なかったのか」と問い詰められる。

 学校の勉強でもそうだ。100点じゃないとダメ。それ以外は98点も60点も0点も全部同じだと育てられた。だから僕は、100点以外のテストは、学校の机の中に隠していた。

 すべてにおいて完璧でなければならない。できていないところがあれば、それを徹底的に見つめる教育方針によって僕は育ったのだ。

僕の周りの人は、「萩野は人に無関心な奴だ」と思っていただろう。

萩野公介

 こうしたなかで育った僕は、「人に自分を素直にさらけ出すこと、それが良いことであっても悪いことであっても、見せることが悪いことだ」という考えを持って生きるようになっていた。 

 それが、自分のDNAに組み込まれているといっても過言ではないほどに。

 自分自身のことを誰にも伝えようとしない僕は、人に興味も湧かないし、介入することも介入されることも好きではなかった。

 大学で初めてチームに入って一緒に練習したり、学生ミーティングで同期とチーム内の問題について話したりする機会なども色々あったが、僕のスタンスはいつも「どうだっていいじゃん、ほっとけばいいじゃん」という感じだった。

 当時、僕の周りの人は、「萩野は人に無関心な奴だ」と思っていただろう。

 僕も好きでそんな生き方をしてきたわけではない。ただ、それ以外の生き方を知らなかっただけ。

 本当だったら、成長する過程のなかで、それではいけないと打ち砕かれる出来事があり、変わるべき瞬間が普通に来るのだろう。だが僕の場合は、色々な経験をするものの、その瞬間が訪れることのないまま大人になってしまった。

 しかし、そんな生き方には「限界」が来ていたのだと思う。

 ついに、幼い頃から積み重なってきたものが表面化し、崩れ落ちる瞬間がきたのだ。

レースが終わって、すぐに思った。「もう泳ぎたくない」

萩野公介

 2019年2月、千葉国際で開催されたコナミオープン。グアム合宿を経て臨んだこの大会では400mと200mの個人メドレーに出場する予定だった。

 いつもはレース直前までウォーミングアップをおこない、ギリギリまで調整して試合に臨む。

 だが、この日は違った。何故かいつもどおりのルーティンができず、レース開始の2時間前にはウォーミングアップを終えてしまっていた。

 いま思えば、自分の身体が望まない嫌なものに対して、防御本能が働き、動くことを拒絶していたのだと思う。

 普段どおりにいけば、レースが始まる前には「よし」という気持ちに切り替わるはずなのに、この日は「大丈夫なのかな?」といった、いつもと全く違う気持ちでレースに臨んだことを確かに覚えている。

 実際、泳ぎ始めると身体がどんどん、どんどん動かなくなっていく。

 まるで、自分の身体とは別の物体が泳いでいるような感覚だ。レース中だという意識はあるけど、そこに自分がいない感じがした。

 いつもなら危機感を抱く状況にも関わらず、「何か変な感じになっちゃってるなぁ―」と、ただボーッと俯瞰して自分の泳ぎを見ているようだった。

  レースが終わって、すぐに思った。

「もう泳ぎたくない」

 ただこのときは、平井先生にはその言葉を伝えることはなかった。言いにくかった、とかではない。自分に組み込まれていたDNAにより、漠然と感じる「泳ぎたくない」という気持ちを誰かに伝える、ということすら思いつかなかったのだ。

 だから、「体調があまり良くないので棄権させてください」。そう、一言だけ伝えた。

「もう泳ぐのは無理なんじゃないかな」と茫然と考えているだけだった。

萩野公介

 競泳選手にとって、2月は2カ月後に迫る日本選手権に向けて調子を上げていかないといけない、とても大事な時期。

 だからこそ、この時期に棄権することが、どれだけ良くないことかは自分でも重々理解していた。

 しかし、僕は棄権することを選んだ。

 アスリートには、乗り越えなければいけない局面がたくさんある。

 いままでも何度もそういった局面を乗り越えてきた。

 ただ、そのときばかりは我慢して「もう1レース」とか、ある意味「どうでもいい」と思ってしまうほど、それは無理だと思ってしまった。

 平井先生に棄権することを伝えた後のことは、あまり覚えていない。昼前にみんなより先に帰ったことくらいしか思い出せない。自宅に帰って、自分が何をしていたかさえも思い出すことができないのだ。

 そのときは、「もう泳ぐのは無理なんじゃないかな」と茫然と考えているだけだった。

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 大会終了の数日後には、スペイン合宿の予定も組まれていた。航空チケットや宿泊先の手配のことなどを考えると、合宿に行くかどうかの判断が早急に必要だ。

 しかし、大会を棄権したあの日から数日経っても、僕の状態は全く変わっていなかった。

 悩んだ末のこと。

 出発前日の夜9時ごろだったと記憶している。

 自宅から平井先生に電話をかけることにした。

 平井先生は最初、「元気か?」と気遣う言葉をかけてくれて、少し他愛もない会話をするところから始まった。

 そして、会話が進むなか、僕からこう伝えた。

「先生……合宿の件なんですけど、行かないことにします。正直、この前の試合も……」

 いままでの僕なら、それ以上、何も言わずに会話を終えていただろう。

 しかし、抑え込んでいた自分の素直な気持ちを、もう見て見ぬふりはできない「限界」がきていた。

 僕は、こう言葉を紡いでいた。

「いまは泳ぎたくないです……水泳が嫌いになったかもしれないです……好きじゃないです」

 平井先生にその言葉を伝えた瞬間、自分の中に抑え込んでいた感情の蓋が外れて、一気にガタガタッとすべてが零れ落ちていく感覚がした。

 そして、僕は嗚咽するほど泣き崩れた。

 人生で初めて、というくらいに号泣した。

 30分ほどの電話だったが、僕はただただ泣き続けていた。

 その自分の姿を客観的に見て、「今、やっぱり正常じゃない。普通の人間なら、こうはならないよな」と思ったことを今でもはっきりと覚えている。

 そんな僕に、平井先生はこう言ってくださった。

「やっと、そういうことを素直に言ってくれるようになったな……俺が守るからな。なんとかするからな、俺がいるからな」と。

 僕は「ありがとうございます、ありがとうございます」と返答するのが精一杯だった。

 僕はこのときはじめて、自分の弱い部分を人に素直に伝えることができたのだ。

 そして、このときの平井先生の反応があまりにも優しくて、「こういうことって、人に言ってもいいんだ、こういう生き方もあるんだ」ということを初めて知った。

 このとき流した涙の量で「自分がこんなにもつらかったんだ、我慢していたんだ」と気づけたが、それと同時に安堵感にも包まれた。

「もう泳がなくていいんだ」と思えて、すごく気持ちが楽になった……。

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 そして2019年3月、僕は東京五輪の前年にも関わらず、日本選手権の欠場を決断した。

 そのまま休養に入ることを宣言して日本代表からも離れたのだった。

 いま考えると、この休養期間が僕の新しい生き方に辿りつく貴重な期間となったから、この大きな決断は間違っていなかったと思う。

「人間“萩野公介”を応援している」この言葉にどれだけ救われたかわからない

萩野公介

 休養期間に入り、真っ先に思いついたことは「色々な人に会おう」ということだった。

 本来、一般的な心の苦しみであれば、家の中に閉じこもるはずなのに、僕の身体と心が、本能で人と会うことを求めていたのだと思う。

 まずは、今まで全然時間がなくて会えていなかった人たちに会いに行った。

 故郷の栃木県にある中学校の先生のもとにも訪れた。作新学院の中等部は、小学校のころに壮絶なイジメにあった僕が、地元の公立の中学校ではなく親に頼み込んで行かせてもらった学校だ。

 この中学校に通って初めて「学校って楽しいな」と感じることができた。その思い出を作ってくれた先生たちは、僕が良い結果を出しているときも悪い結果のときでも、スタンスを変えずに接してくれる。僕にとっては自分の居場所のように心が落ち着く人たちだ。

 先生たちは、日本代表を離れて会いにいった僕に対し、やっぱり変わらず今まで通りに接してくれた。

 小さなころから高校3年まで通った“みゆきがはらスイミングスクール”の先生にも会いに行った。

 僕は、みゆきがはらの先生と普段こまめに連絡をとっているわけでもないし、毎日練習を見てもらっているわけでもない。それにも関わらず、久しぶりに会った先生は今までのことを全部見ていたかのように僕のことをわかってくれた。そして、こう言った。

「やめるという選択肢を入れた上で競技を続けなさい」

 僕の心を汲んだアドバイスをくれたのだ。

 僕は「なんで、いつも見ているわけじゃないのにわかるんだろう。長く生きているとこんなにも人のことが分かるのかな」と驚いた。同時に、僕がどのような状況に置かれていたとしても、先生の一言一言には、“萩野公介”を一人の人間として尊重し応援してくれている想いが込められていると感じ、「会いに行ってよかった」と心から思った。

 その想いは、プロ契約を結び、いつも支援してくれているブリヂストンさんに事情を説明しに行った時にも感じた。

 僕は、契約終了の判断をくだされても仕方がないと覚悟をしていた。しかし、僕が「お休みさせてください」と言ったとき、ブリヂストンさんからは、思いもよらない言葉が返ってきた。

「私たちは金メダルの萩野公介を応援しているわけではなく、萩野公介選手自身を応援してきました。萩野さんがまた歩み始めるとき、頑張ろうと思えるときまで、変わらず全力で応援させてください」

「人間“萩野公介”を応援している」。そうきっぱり言っていただき、心から「この人たちのために恩返しがしたい」という思いを強く持った。

 このときの僕にとって、これほど心にしみる言葉はなかった。この言葉にどれだけ救われたことか……。

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 休養期間中、僕は1人で海外に出かけた。

 いままで、何度も海外遠征は経験している。だが今回は、行き先や宿泊場所、そして移動手段など、すべてを自分で決める、アテのない初めての一人旅だ。

 髪の毛を丸坊主にして、まさに「ゼロから」。ドイツ、そしてギリシャへと旅をした。

 海外で出会った多くの人たちもまた、僕の新しい生き方にたくさんの影響を与えてくれた。

 ドイツでは、共通のトレーナーさんの紹介で、ブンデスリーガの大迫勇也選手にお会いすることができた。

 人が、人のために人を紹介してくれる。多くの人にとっては当たり前のことなのかもしれないが、僕には「人の力って偉大だな」という素直な驚きがあった。

 そして、大迫さんは初対面にも関わらず僕にすごく良くしてくれた。試合に招待していただき、食事にも何度も連れて行ってもらった。

 純粋に「なんでこんなに優しいんだろう? 人ってこんなに優しくできるんだな」と思った。

 僕が逆の立場なら、僕のような誰かが訪ねて来ても、ある程度適当に接していたはずなのに。同じブンデスリーガの宮市亮さんにもお会いしたが、宮市さんもやはり温かく優しく接してくれた。出会う人すべてが本当に優しかった。異国の地でありながら、日本からのつながりというか、人のつながり、そして温かさを僕は感じることができたのだ。

休養期間。そこで出会った多くの人たちが、僕に教えてくれた。

萩野公介

 海外での旅の仕方は、本当に気の向くまま、思うがまま。

 次の日の宿は、前日にGoogleで調べて決めていた。「青春18きっぷ」みたいなチケットを買って、「次はここにするか」「観光地はここか」など、そのときそのときで思いのまま行き先を決めて、のんびりと旅をしていた。

 ある日、食事をとれる店を何軒探しても見つけられない日があった。

 Googleマップで調べて、やっとのことで開いている店に着いたのだが、その店は、男性2人で切り盛りしている地元の人しか来ないようなローカルのお店だった。扉を開け、「やっていますか?」と店の男性に聞くと、「やっているよ、でも今日は貸し切りなんだよね」と申し訳なさそうに断りの返答がかえってきた。ここもダメか……と諦めようとしたそのとき、もう1人の男性が「1人くらいだったらいけるかもな。貸し切り用のご飯と同じメニューでもいいか?」と言ってくれた。僕は「ありがとうございます、全然なんでもいいんでいただきます」と言って晩御飯をいただいたが、空腹で倒れそうな僕の喉を通る料理は、どれも信じられないくらいに美味しかった。

 出された料理の味にも感動したのだが、英語もろくに喋れない見ず知らずのアジア人が、予約もせずにいきなり貸し切りの店に1人で来たにも関わらず、気前よく食事を出してくれたその男性の優しさに僕は驚いた。しかも、親切に対応してくれたので、チップをいつもより多めに払おうとした僕に対して、その店員の男性は「チップなんかいらねえから。またここに食べに来い。またな」と言ってくれたのだ。お金じゃない優しさというか、人の温かさに触れて「本当に人って温かいな、こういうことを感じることが生きてるってことなのかな」と思った。

 休養期間。

 そこで出会った多くの人たちが、僕に教えてくれた。

 なぜ今まで、僕は自分をさらけ出すこと、弱い部分を見せることをしなかったのだろう。

 こんなにも人は優しくて、温かいんだ。もっと人に頼ってもいいんだ。いままでのように自分に嘘をついて、嫌なことを隠して生きていかなくてもいい。

 できないことはできない。お願いすることはお願いする。

 嬉しいときは嬉しい。

 悲しいときは悲しい。

 悔しいときは悔しい。

 それを素直に言っていいのだと、いままでの僕の生き方とは全く別の生き方をしてもいいんだということを学ぶことができた。

Mine Kaspologlu

 僕の人生、振り返ればたくさんの分岐点があった。しかし、今後の人生に活きる大きな分岐点は、間違いなくこのときだろう。日本で会いたかった人たちに会ったことや、異国の地で、1人で過ごした時間、すべての出来事がこの時の僕にとって必要なものだったのだ。

 一人旅最後の国となったギリシャから日本に帰国したときには、休養宣言をしてからすでに3カ月くらいが経っていた。

 正直、そのときに感じたことは「いっぱい休んで、もうすることがなくなったな」ということだった。

 そして、そのころには、水泳を「もう一度やるのか、やらないのか」を具体的に考えられるようにもなっていた。

 ただ、もうこのときには、すでに僕の答えは決まっていた。

 旅の最後に訪れたのがギリシャのアテネだったのも、今になって思うに、水泳を続ける方向で考え始めていたからだろう。やはり僕にとって、他の試合とは全く異なる雰囲気や緊張感、それらが織り交ざり創り出される独特の空気感が流れるオリンピックは特別だ。だからこそ、オリンピックの故郷、ギリシャ・アテネを最後に訪れたのだと思う。

 そして、水泳を続ける決意をした背景には、このような考えもあった。

 もし、自分が水泳を続けないと決めるときには、水泳と同じくらい情熱を持つものが見つかると思っていたが、僕には見つからなかった。

 平井先生からも、休養期間中に「やめることも考えていいんだぞ。プロだから泳がないといけないとか、そういうふうに思わなくていいんだ。お前は金メダルをとり立派な成績を残したんだ」と、心配して温かい言葉をかけてもらっていた。

 でも、僕が出した答えはこれだった。

「水泳に対する情熱は、失っていない」

 どんな結果になるとしても、泳ぎ続けると決めた。すべてを受け入れる覚悟ができた。

 たとえオリンピックに出られなかったとしても「それはそれで萩野公介だ」と。

 チャレンジをするチャンスが平等にあるなら、もう一度挑戦してもいいのかなと思って、6月に復帰宣言をしてまた泳ぎ始めた。

今、自分の水泳(色)を表現できるのが200mの個人メドレーなのだ。

萩野公介

 休んだからといって、その後のすべてが順風満帆だったかと言われると全然そんなことはない。

 復帰後、タイムも全然伸びない。全力で200m個人メドレーを泳いでも1分57秒4。以前までの僕なら「1分57秒4は100点ではない」と自分を責めていたことだろう。

 ただ、すでに休養を経て色々な経験をしたことで、僕の中で捉え方が変わってきていた。

 プロだから当然結果を出すことは大事だが、100点がすべてではない。

「“萩野公介”を応援している」とたくさんの人から言ってもらえた僕には、自分にしか出せない“色”があると信じている。

 東京五輪の代表選考を兼ねたレースで、200m個人メドレーのみに専念した僕に、多くの人が「リオ五輪で金メダルを獲得した400mになぜ出場しなかったの?」と質問した。

 たしかに、400m個人メドレーは僕の人生で、もちろんすごく大切なものだし、本当にたくさんのものを貰えたけど、今、自分の水泳(色)を表現できるのが200mの個人メドレーなのだ。

「200で挑戦し、なんとしてでもオリンピックに行きたい」。

 自分の素直な気持ちを信じ、僕は再びオリンピックの舞台を迎えようとしている。

Lars Baron/Getty Images

 ここ1年くらいで、ようやく新しい自分、そして新しい自分の水泳に出会えたように思う。以前は苦しいのが当たり前で楽しいなんて思うことはなかったが、今はこう気づけるようにもなった。

「これが水泳の楽しさだったのか」と。

 競泳選手として長年キャリアを積んできて、今ごろになって気づくなんてもったいないな(笑)、と思いながら、今も泳ぎ続けている。

 ただ、それが“萩野公介”なのだろう。

 そして、この生き方は何点でもないのだ。

 僕がやるべきことは、ただひとつ。

 “萩野公介”を応援してくれる人のために、自分に素直に挑戦し続けるだけだ。

TAKAO FUJITA

「もう泳ぎたくない」

 そう、あの日一度はあきらめかけた東京オリンピックに向かって。

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