“柔道” ~私にはやらなければいけないことがある~

World Judo Championships - Day 3 | Kiyoshi Ota/Getty Images

 私が柔道を始めたのは小学生のとき。先に柔道をはじめていた兄を追いかけ私も入門した。 

 兄は小学生のころから非常に強く、全国チャンピオンになり、スカウトされて東京の講道学舎へ進んだが、当時の私は、体が小さくて本当に弱い選手だった。それにも関わらず、講道学舎で活躍している兄の姿に憧れを持っていた私は、「兄と同じ道を辿れば強くなれる」という楽観的な考えで、またしても兄を追う形で、生まれ育った山口県を12歳で離れ、上京して講道学舎に入門する道を選んだ。 

 講道学舎は、古賀稔彦先輩や吉田秀彦先輩ら数多くの金メダリストを輩出し、まさに「虎の穴」と呼ばれる環境。私を待ち構えていたのは、「人生の大きな間違いをした」と思うほどの過酷な稽古、まるで地獄のような日々だった。 

 中学・高校の6年間を過ごした講道学舎、そしてその後、進学しいまも拠点としている天理大学が、私の柔道人生の礎になっている。 

 そこで長年にわたって鍛え、学んだ『古き良き時代の“柔道”』、そして、『その歴史』が、私にとって積み重ねとなり、いま、「点と点が結びつく瞬間が東京五輪になる」と信じて鍛錬に励んでいる。

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 講道学舎と天理大学。 

 この2つには、1964年に開催された東京五輪と大変深いつながりがある。 

 当時の“柔道”は、まさに日本の「お家芸」であり、特に重量級は花形だった。 

 しかし、その東京五輪で、重量級の神永昭夫選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れたのだ。   

 この敗戦で、日本柔道の危機を感じ設立されたのが講道学舎である。 

 そして、その日本柔道を破ったヘーシンク選手が、五輪前に武者修行していたのが天理大学。しかも、ヘーシンク選手を指導したのは、天理大学の初代師範であり、東京五輪の日本代表監督をつとめていた松本安市さんだった。 

 何ともいえない複雑な結果となったが、それらも含めて、私が歩んできた講道学舎と天理大学が、なぜか東京五輪にとても深いつながりがあるのだ。 

 そのつながりは、天理大学の大学院でより詳しく知ることになった。 

 リオ五輪で金メダルを獲得した私は、「次の五輪に向けてどういう気持ちで臨もうか」と考えていた。大学院で主に勉強していたのは、自身の柔道スタイルや技術のことであったが、研究室にあったいろいろな資料を通じて、天理柔道と前回の東京五輪とのつながりを学ぶことができた。 

 その中には、「ヘーシンク選手が大学のあの場所を走っていたんだ」と感じさせる資料まであり、『古き良き時代の“柔道”』、そして、『その歴史』に触れる経験をすることができた。 

 この期間で得た知識や経験が、もう一度、自分自身を奮い立たせるには、じゅうぶんすぎるほどの動機づけとなった。使命感ではないが「俺がやらなきゃ誰がやる」という気持ちに自然となったことを覚えている。 

JUDO-OLY-2016-RIO-MEN--73KG | JACK GUEZ/Getty Images

 私がいまも追求し続けている、古き良き時代の“柔道スタイル”。 

 その“柔道”をさかのぼると、1964年の東京五輪に辿りつく。 

 いまは、時代とともに、“柔道”が海外に普及し、ロシアのサンボ、モンゴルだったらモンゴル相撲などいろいろな格闘技の技術が入り、国際化を遂げ、“JUDO”といわれるものに変わってきている。ある意味、それは新しく、進化を感じるものでもある。 

 ただ、本来の“柔道”の良さや面白さが失われていることもひとつの事実だと思う。半世紀も前の柔道スタイルを私自身が体現できているかはわからないが、そこを目指していることが価値のあることだと感じ、逆に一周回って、昔のスタイルをいまになり表現することは、新しいことなのではないかという気持ちにもなっている。 

「正しく組んで正しく投げる」 

 まさにそれこそが、古き良き時代の“柔道スタイル”なのだ。 

 何を持って正しいとするかは、各々の解釈もあると思うが、最も重要なことは、観ている人にとって、「強いな」「綺麗だな」と思える、わかりやすい柔道であることだと私は考えている。 

 全日本男子チームの合宿で特別講師として指導頂いた際の岡野功先生の言葉が、私の心に響き、いまもなお残っている。 

「どちらが勝ったかわからないような柔道をしてほしくない」 

 私の講道学舎の恩師が、岡野先生に教えてもらっていたという関係があり、私も岡野先生に高校生のころに教えていただく機会が何度かあった。 

 そのころ以来にお会いした全日本の合宿では、柔道衣を着て、われわれ現役選手の前で指導をしていただいた。80歳近くになられ、体調もあまりすぐれないと聞いていたが、体を動かしておられる姿を目の当たりにしたとき、「達人だな」と強く感じたことを覚えている。

 全日本の選手たちを前にしても一切物怖じしない、逆に飲み込んでしまうような達人感がそこにはあった。自分自身も歳を重ねたときに「そういった雰囲気をまとえるような柔道家でいたい」と思ったほどである。 

 その岡野先生の「どちらが勝ったかわからないような柔道をしてほしくない」という言葉には、「一本を取って白黒をはっきりつける“柔道”をしなさい」というメッセージが込められている。 

 私自身も、そうでないと競技としての“柔道”の魅力が失われていくと日々感じている。 

 そして、岡野先生はもうひとつ、私に“柔道”の心構えに関する大切な言葉をかけてくださった。 

「柔道はスポーツではない、武道、武士道である」 

 この言葉の真意。 

「“柔道”は武道、武士道。戦場で刀を持って侍が戦う際に、刀が切れなくなったときに最後にとどめをさす術、そのくらい生きるか死ぬかの気持ちでやりなさい」と私に伝えてくださった。 

 岡野先生が現役で試合に臨むときは、そのような心構えだったのだ。 

 いまの私たちは「負けても死ぬわけじゃないし」と逆の考え方だと思う。そこが、まだまだ自分の“柔道”に対する甘さだと認識した瞬間でもあった。

人間の真価が問われるのは負けたときの姿勢だということだ

大野将平

 我々がやっているのは“柔道”、武道であることを忘れてはいけない。 

 武道である“柔道”をおこなううえで、いつも思うことは、人間の真価が問われるのは負けたときの姿勢だということだ。 

 シドニー五輪の大誤審で敗戦し、その後のインタビューで「自分が弱いから負けた」と語った篠原信一先輩の姿勢がまさにそれにあたる。私は、このときの試合を観て、武士のような潔さを持つ篠原先輩に憧れをもった。 

 いま、ウズベキスタンでヘッドコーチをしている、“ギリシャの英雄”と呼ばれているイリアス・イリアディス選手もそうだ。 

 2005年の世界選手権、男子90キロ級の決勝戦。 

 講道学舎の先輩である泉浩選手と対戦したのは、内戦が起きていていたグルジアからギリシャに17歳で亡命したイリアディス選手。 

 泉先輩はそれまでずっとイリアディス選手に勝てなかったが、その試合は泉先輩が一本勝ちをした。すると、イリアディス選手は泉先輩の腕を掲げ、「彼こそが王者だ」と称えたのだ。 

 その試合を現地で観ていた私の講道学舎の恩師が、「あの瞬間に、勝負に勝ったが、イリアディスに人として負けたと思った。お前たちもメダルを取ることだけに執着するような器の小さい人間にはなってはいけない。圧倒的な強さを求めつつも、冷静にたくさんのものを愛せる選手になってほしい」と、塾生だった私たちに伝えてくれた。 

 イリアディス選手の潔さ。負けてすぐに相手を称えられる器の大きさ。 

 本来、負けたら悔しさのあまり、相手のことを思いやる余裕などない。だからこそ本当に、それができる選手は素晴らしいと思う。いま、私にその器量があるかはわからないが、そうありたいと考えている。 

「敗戦したときこそ人間の真価が問われる」 

 篠原先輩とイリアディス選手の姿から、負けたときにこそ“柔道家”としての振る舞いが求められることを学んだ一方で、私は、勝利した者はより一層、相手への敬意を払う姿勢が重要なのだと理解している。 

Judo - Olympics: Day 3 | David Ramos/Getty Images

 私が2016年のリオ五輪で勝利し金メダルを取ったとき、ガッツポーズなどリアクションをしなかったことで評価をしていただいたが、私のとったその行動は、講道学舎・天理大学に縁のある海外選手に学びを得ていたからなのだ。 

 その選手こそが、先述したヘーシンク選手である。 

 彼が、1964年の東京五輪で金メダルを獲得した瞬間、祝福のために畳にあがって駆け寄ろうとしたオランダの関係者に、「畳に上がってはいけない。ここは神聖な場なのだ」と言って、手で制止したエピソードがある。私は、まさに彼の姿勢こそが“柔道家”だと深く感銘を受けていた。 

 勝ったときこそ相手に思いやりを持たなければいけない。 

 相手は、負けて一度悔しい思いをし、目の前でガッツポーズをしている相手を見て、さらにもう一度悔しい思いをすることになる。 

 敗戦した選手に何度も苦しみを与えることはナンセンスであると、私はヘーシンク選手の姿勢から学んだのだ。 

 日本発祥の“柔道”だからこそ、我々が海外の“柔道家”に恥ずかしい姿を見せてはいけないと感じている。 

 最近、特に、日本人よりも日本人らしい海外の“柔道家”が多いと私は感じている。 

 ヘーシンク選手やイリアディス選手といった偉大な選手をはじめ、リオ五輪の時のジョージアのリパルテリアニ選手も、私の目に焼きついている立派な“柔道家”だった。 

 オリンピック決勝の舞台で惜しくも敗戦したリパルテリアニ選手は、負けて悔しいはずなのに毅然とした振る舞いをしていた。 

 その姿を見て私は感じた。「日本人よりも日本人らしいな」「彼こそが侍だな」と。 

 日本発祥である“柔道”だからこそ、我々が海外の“柔道家”に恥ずかしい姿を見せてはいけないと感じている。

古き良き時代の“柔道”をしているときが、一番人気があったのだと思う

大野将平

『正しく組んで正しく投げる』 

 その“柔道”を実現するには、「自他共栄」が私の中ではキーワードだと思っている。 

 いまの柔道(JUDO)は、どうしても相手の良さを消していく引き算だと思う。相手が10の力を持っていたら、それを出させないように削っていく。 

 実際にいまの多くの選手がそうだ。「相手の持っている力を抑え込もう、良さを消していこう」とする。その結果、当たり前のことだが、お互いに引き算をしていてパフォーマンス的には悪くなるし、見ている人も面白くないと思う。 

 昔の“柔道家”は、血気盛んで、自分がどう投げるかしか考えていなかった。 

「自他共栄」という文字の通り、自分と相手で栄えていく“柔道”をしていたのだ。お互いが喉元に刀を突きつけあってやる感覚だったと思う。だからこそ面白い。 

 古き良き時代の“柔道”をしているときが、一番人気があったのだと思う。 

 それに対して、「いまの柔道(JUDO)」は、お互いに実力のある選手が、距離を取り合い、攻撃よりも守りを固めるではないが、投げられないことに比重を置いている。 

 私もチャンピオンになってから、相手に研究され、稽古も試合もマイナスを塗りつぶしていく作業になり、やっていて面白くないと思うようになっていった。 

「どうしたら自分は投げられるのか」「どうやったら負けるのか」をひたすら考える。 

 相手がマイナスのことを掛けてくるときに、こちらがプラスで応戦しても、数学と一緒でマイナスとプラスを掛けてもマイナスにしかならない。相手がマイナスのことをしてきたときには、本意ではないことだが、我慢してマイナスを掛けてプラスにもっていく作業が、私が勝ち続ける、チャンピオンになるのであれば必要なことだとも思う。 

 ただ、自分が本当にやりたい“柔道”かと言われれば、そうではない。マイナスのことをやって、相手の嫌なことをやる柔道(JUDO)だからだ。 

 私は今後一切「楽しい柔道をすることはもうない」と感じていた。 

 しかし、プラスとプラスで掛け算になるような、まさに「自他共栄」ができた心に残る一戦がある。 

 それは、最近引退された講道学舎の先輩でもある海老沼匡選手と2019年4月に世界選手権の代表を争った試合だ。  

All Japan Judo Championships By Weight Category - Day 2 | Toru Hanai/Getty Images

 リオ五輪が終わった後、海老沼先輩はひとつ下の階級から、私と同じ階級に上げてきた。

 その試合が海老沼先輩との最後の試合になったが、それ以前にも3回、対戦していた。 

 1回目は私が負けて、2、3回目は私が勝った。そして4回目、世界選手権の代表を決める試合を戦う前に、自然と「これ以降は戦うことがないだろうな」とふと感じた。 

 海老沼先輩とできる最後の戦い、そういう感覚が自分の中にはあった。 

 試合は、私が最初に攻めて“指導”をとり、次に海老沼先輩が攻め返してきて“指導”をとられ、その後、私がまたやり返して“指導”をとった。 

 通常の試合では、“指導”は基本的に両者に同時に出されたり、片方の選手が一方的にとることが多いが、この試合では交互に“指導”を取り取られる展開になった。 

 滅多にないしのぎを削る戦いの末、最終的に“指導”が2-2となった。3つの“指導”がついたら反則負けの後がない状態。しかし、2-2になったときに、両者が攻めに振り切っているので、審判はそれ以上“指導”をとれない。 

 審判は、会場の雰囲気が“指導”決着を望んでいないことをわかっているし、お互い攻めているので“指導”がとれないのだ。お互いの意地。そういった試合では、綺麗に「一本」で決まるものではないかと頭をよぎったが、拮抗し集中していたこの試合では、投げた技の返し技で、地味な感じでポイントをとる展開となった。それを含めても「“柔道”だな、戦っているな」と感じた。ギリギリのところでの戦いを感じることができた。 

 お互いに言葉を交わすわけでもなく、自然とお互いの拳、握っているところが唯一の接点なので、そこから発せられるもの、そういう意味では以心伝心していたような気がした。 

 この試合こそが、武道、武士道である日本古来の“柔道”ができた試合だった。 

 これまでの柔道人生で何百試合もやっているが、両者が矛と盾を持っていると例えるならば、盾を捨てて、完全に矛だけで合うような、超攻撃的にお互いがやりあった試合だった。あの感覚は、唯一あの試合だけだ。 

 あとで映像を見返してみると、我々が動いている時間は、観客が固唾をのみ一切音を立てていなかった。通常の試合であれば声援が上がるものだ。しかし、その試合に限っては全くなかった。 

「待て」がかかるたびに、「おおー」という地鳴りのような音がした。 

 最後は、私が返し技で勝利したが、試合後に山下泰裕会長が、「観客全員がスタンディングオベーションしていたよ。そんな試合はいままでなかったと思う」と仰っていた。 

 まさに自他共栄。私と海老沼選手だけでなく、観客すべてを巻き込んだ自他共栄の試合は、なかなかできるものではないと試合を振り返って自分自身も感じている。 

 あの試合のように、お互いがプラスとプラスで掛け算になるような“柔道”がもう一度できたらと思う反面、「あの一戦を超える試合は今後できないんじゃないかな」という気がする。同じ講道学舎出身の、同じ生き様を持っている者同士だからこそ、あのような試合になったのかなと今では考えている。

古き良き時代の “柔道”が一番強いということを証明する

大野将平

  今年開催される東京五輪。 

 もちろん、対戦相手も必死だし、綺麗ごとばかりを言ってはいられない。 

 勝負の世界なので、時に本意ではないことが必要になる場合もあるが、緻密な部分も考えて、自分の目指す“柔道”を体現していきたいと考えている。 

 おそらく、現役が続く以上、いま私が感じている葛藤は消えることはないだろう。 

 それは、次の東京五輪で金メダルを獲っても変わることはないはずだ。 

 ただ、私にはやらなければいけないことがある。 

 それは、東京五輪の舞台となる武道館で、講道学舎・天理大学で学び培ってきた古き良き時代の “柔道”が一番強いということを証明することだ。 

 そのためにも、金メダルが必要だと感じている。 

 そして、そのときが、すべての「点と点が結びつく瞬間」になるのだと思う。

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