ヤング・キリアンズへの手紙

SAM ROBLES/THE PLAYERS' TRIBUNE

To Read in English (Published Feb 26, 2020), click here.

ボンディの子供たちへ。

イル・ド・フランスの子供たちへ。

バンリューの子供たちへ。

みんなに、このストーリーを伝えたい。

これはサッカーにまつわる話で、その点ではみんなも驚かないだろう。僕にとっては、あらゆる物事がサッカーと結びついている。父に聞いてもらっても構わない。3歳の誕生日に、オモチャの4WDトラックを父が買ってくれた。電動モーターで動くやつだ。ペダルなども付いていて、実際に座って運転もできる。両親は、家から道を挟んだ向かいのサッカー場まで、トラックに乗って行くことを許してくれた。まるで車を運転して練習に向かう本物のサッカー選手のようにね。こんな些細なルーティンでも、僕にとってはとても大事だったんだ。あとは、コスメポーチがあれば完璧さ!

練習場に着くと、車はいつも角に停めて、そしてサッカーをした。友達は、クールな僕の四駆を羨ましがったけれど、僕にとっては車を停めてしまえば、そんなことはもうどうでもよかった。

とにかくボールに触れたかったんだ。

僕にとっては、ボールが全てだったから。

そう、これはサッカーについてのストーリー。だけど、サッカーが好きでなくても大丈夫。なぜなら、このストーリーのテーマは夢だから。ボンディ、93県、それにバンリューの人達は裕福ではないかもしれない。でも、夢を追いかけている。それが僕たちだ。だぶん、夢を見るのにお金はかからないからかな。事実、タダだ。

僕たちの地元は、フランス、アフリカ、アジア、アラブなど、世界各地から人々が集まっていて、異なる文化が溶け合ってできた素晴らしい地域だ。フランス以外の人たちは、バンリューと聞くと良くないイメージを持つと思う。けれど、地元民でなければ本当の姿はわからない。よく、“悪党”が誕生したような場所と言われる。でも、悪党は世界中にいる。生活困難者は世界中にいる。僕が幼い頃に実際に目にしたのは、屈強な男達が、僕のおばあちゃんが買った食料品を運ぶのを手伝ってくれた姿だった。こんな話は、ニュースでは絶対に報じられない。耳にするのは悪い話ばかりで、良い話なんて一度も聞かないだろう。

Courtesy of Kylian Mbappé

ボンディには、誰もが知っている共通のルールがある。若い時に学ぶことさ。道を歩いていて、角に15人が立っているとする。面識があるのは、その内の1人だけ。この状況での選択肢は2つ。手を振ってその場を通り過ぎるか、15人全員と握手するか。

もし面識のある1人だけと握手をしてその場を通り過ぎたら、ほかの14人は絶対にあなたのことを忘れない。あなたのひととなりが知られてしまう。

不思議な話だけれど、僕はボンディのしきたりとともに人生を歩んできた。これは、昨年のザ・ベスト・FIFAフットボールアウォーズでの話。式典前に両親と歩いていたら、向かいの部屋にジョゼ・モウリーニョがいた。ジョゼとは面識があったのだけれど、彼は4、5人の友人と一緒にいて、僕は彼らとは初対面だった。ボンディでのしきたりが当てはまる状況だ。僕は、“モウリーニョにだけ手を振って挨拶すべき? それとも部屋に入っていくべき?” と考えていた。

僕はモウリーニョのところに行って握手と挨拶をかわした。そして、自然な感じで彼の友人たちとも握手した。

「ボンジュール!」。そして握手。

「ボンジュール!」。そして握手。

「ボンジュール!」。そして握手。

「ボンジュール!」。そして握手。

彼らはみんな、“俺たちにも挨拶してくれるのか?  じゃあ、ハロー!” という感じで驚いていて、面白かったな。

その場を離れると、父が笑って、「ボンディ流だな」と言っていたよ。

反射的に動いてしまう。それが僕たちのルールだから。ボンディでは、サッカーを越えた価値観を学べる。同じ地域で暮らしているのだから、全員と平等に接する。みんなで同じ夢を共有するんだ。

僕も友達も、サッカー選手になりたいなんて思わなかった。なれるとも思っていなかった。そんなことを考えてもいなかった。ただ夢見ていただけだった。そこには大きな違いがある。子供の頃には、部屋の壁に憧れのスーパーヒーローのポスターを貼るよね。僕たちにとってのスーパーヒーローは、サッカー選手だった。僕はジダン、クリスチアーノのポスターを壁中にたくさん貼っていたよ(実は、大きくなってからネイマールのポスターも飾っていたのを知った本人は笑っていたよ。まぁ、それはまた違う話だね!)。

ウチの地元から才能のある選手が多く輩出される理由を聞かれることがある。特別な環境があるんじゃないかとか、バルセロナのように練習方法が違うんじゃないかとか、そういう質問をされる。でも、そんなことはない。ASボンディの練習を見に来れば、ただただ普通で、家族のようなクラブだということがわかる。共同住宅が何棟かあって、人工芝のグラウンドがあるくらい。でも、僕たちにとって、サッカーは特別。日々の生活に欠かせないものだ。まるで、パンと水のようなものなんだ。

学校で、小学6年、中学1年、2年、3年まで対象のトーナメントがあったんだ。僕たちにとっては、ワールドカップのような大会だった。たった2ユーロのプラスチック製トロフィーを獲得するためにプレーしていたけれど、僕たちにとっては、生きるか死ぬか、それくらいのことだった。93県では、いつだって名誉が大事だからね。面白いことに、全チーム男女混合というルールだった。残念ながら、どの女の子も参加したいような大会ではなかったから、出場してもらえるように上手に交渉をしないといけなかった。友達の女の子に、もし全力でプレーしてくれて、僕たちが優勝できたら、塗り絵の本をプレゼントすると約束したのを覚えているよ。その子に出てもらいたくて、頼み込んだのさ。

大袈裟に言っていると思われるかもしれないけれど、僕たちにとってはそれだけ重要だった。僕たちの間では「これは93県の戦いだ。負けるわけにはいかない」と言っていたくらいだった。

たった2ユーロのトロフィーが、僕たちにとってはワールドカップのトロフィー同然だった。そういう大会だったんだ。学校の先生達にとっても大変だったと思う。申し訳なかったな。ある日、学校から帰ると、校長先生から9つの警告が来ていた。

“キリアンは宿題をやっていません”

“キリアンは勉強道具を忘れました”

”キリアンは算数の時間にずっとサッカーの話をしていました”

他のことは考えられなかったんだ。僕は優秀な選手だったけれど、人生のターニングポイントになったのは、11歳の時の93カップだった。僕たちは準決勝まで勝ち進み、その試合はガニーにあるスタジアムで行われた。試合が水曜に行われたことまで覚えているよ。それだけ鮮明に覚えているんだ。あれだけ大きなスタジアムで、大勢の前でプレーしたことはなかった。僕は怯えていた。怖くて、まともに走れなかった。ボールにもほとんど触れなかった。そして絶対に忘れない記憶だけれど、試合後、ピッチに入ってきた母に耳を掴まれた。

僕のプレーが悪かったからではなくて、僕が怖気付いていたから。

母はこう言った。「今日のことを忘れてはダメ。たとえ失敗したとしても、どんな時も自分の力を信じないといけないの。シュートを60本外したって構わない。誰も気にしないわ。けれど、恐れて、プレーするのを止めていたら、これからの人生でも、そうなってしまうから」

今でも一語一句覚えている。母の言葉で僕は変わった。それからは、二度とピッチで怖がることはなくなった。両親、地元、友人の存在がなかったら、今のキリアン・エムバペは存在しない。

僕と同じ地域で生まれていない人には、わかってもらえない例え話かもしれないけれど、11歳の時にチェルシーのユースチームで練習させてもらえることになって、ロンドンに行くことになった。とてもうれしかった。でもあまりの驚きで、地元の友達にどこへ行くのか言いたくなかった。ロンドンから戻ると、友達から「キリアン、先週どこに行っていたんだよ?」と聞かれた。

僕は「ロンドンでチェルシーの練習に参加したんだ」と答えた。

みんなからは「ははは、何言っているんだよ。そんなことはありえない」と言われた。

僕は「本当だよ。ドログバにも会えたんだ」と説明した。

みんなは「冗談だろ。嘘をつくなよ。ドログバはボンディ出身の少年になんて会ってくれない。絶対にありえない!」と言っていた。

僕はまだ携帯電話を持っていなかったから、父にお願いして貸してもらった。そして撮った写真を友達に見せたんだ。それでようやく信じてもらえたよ。でも、みんなが僕に嫉妬することはなかった。それどころか喜んでくれた。みんなにかけてもらった言葉は、これからも忘れない。ASボンディのロッカールームで、試合前に着替えていた時の会話だったから、今でもその時の様子を覚えている。

みんなからは「キリアン、俺たちも連れて行ってくれないか?」と言われた。

まるで、自分が違う星に行ったような気分だった。

僕は「でもキャンプは終わってしまったんだ。ごめん」と謝った。

友人達は携帯の画面を見て、首を横に振りながら笑っていたよ。そして「キリアン、俺たちもこの場所にいるような気持ちだよ」と言ってくれた。

僕たちにとっては、それだけの出来事だった。まるで違う星に行ったような感覚だった。

チェルシーでの練習に参加してから、僕は両親に、ボンディを離れて大きなクラブに行きたいと頼み込んだ。けれど、うちの両親の考え方も理解しないといけない。両親は、僕に地元に残って、普通の幼少期を過ごしてもらいたいと考えていた。その時はわからなかったけれど、それが僕にとって最良の選択だった。なぜなら、閉ざされたアカデミーでは決して学べないような経験をたくさん積めたから。

父からは10年指導してもらった。平日にフランスアカデミーのクレールフォンテーヌで練習をするようになってからも、それは変わらなかった。クレールフォンテーヌでの体験はもちろん素晴らしかったし、世界でも指折りのアカデミーだけれど、週末には家に戻って、父が指導していたASボンディのセミプロチームでプレーしていた。ただ父は、アカデミー流の小洒落たプレーに我慢ならなかったみたいだった。

クレールフォンテーヌのコーチから言われたことが頭に残った状態で地元に戻っていたから、おかしかったね。アカデミーでは、苦手な方の足の練習をしないといけないと言われていた。クレールフォンテーヌでは、技術を磨くことを重視していた。でもボンディでは、とにかく目の前の現実が大事だった。セミプロリーグで生き残ることが全て。何よりも試合に勝つことを求められた。それだけだった。

ある週末にボンディでプレーしていた時、僕はサイドの位置でボールを受けた。右足でボールを受けた僕はフリーで、まさに絶好のチャンス。その時、クレールフォンテーヌのコーチの声が聞こえた気がした。「キリアン、左足の練習をしておけよ」

それで左足でロングパスを狙ったけれど、まるでダメだった。相手にボールを奪われて、カウンターアタックを許してしまい、父はすごい剣幕でカンカンに怒っていた。

今も耳に残るほどだったよ。

Courtesy of Kylian Mbappé

「キリアン! ここはクレールフォンテーヌでの小洒落たプレーを試す場じゃない。俺たちはリーグで戦っているんだ!そんなのは、クレールフォンテーヌの上等なフィールドでやればいい。だがな、ここはボンディだ!俺たちは生活が懸かかっているんだ!!!」

その時に学んだレッスンは、今も自分の中にある。父は、僕の気持ちが入っていなかったのを見抜いていて、グラウンドでの試合に集中するよう諭してくれた。

そして14歳の誕生日直前になって、すごいサプライズが起こった。父がレアル・マドリーの関係者から連絡を受けて、学校が休みの間にスペインでのトレーニングセッションに招待された。マドリーが父に「ジダンがあなたの息子さんに会いたいと言っている」と伝えたと聞いて、本当にびっくりしたよ。当時、ジズーはマドリーのスポーティング ディレクターだった。僕は有頂天になったよ。行きたくて仕方がなかった。

でも、話はそう単純ではなかった。当時からスカウトたちが試合を観に来ていて、僕はメディアからも注目され始めていた。13歳で対処できることではない。相当なプレッシャーもあって、家族は僕を守ってくれていた。

でも、その連絡があった週は僕の14歳の誕生日。僕は知らなかったけれど、両親がマドリーと全てを段取りしてくれていて、プレゼントがわりにマドリードに連れて行ってくれたんだ。

なかなかのサプライズだと思わない!?

信じてもらえないかもしれないけれど、どこに行くかは誰にも言わなかった。すごくナーバスになっていたから、親友たちにも言えなかった。もし良い評価をもらえなかったら、そのことで地元や友達をがっかりさせたくなかったから。

空港からトレーニングセンターに着いた瞬間のことは、一生忘れない。駐車場でジダンと会ったんだ。彼は自分の車で来ていて、もちろんとても格好良い車だった。挨拶をしたら、車でフィールドまで連れて行ってくれることになった。彼は前の助手席を指差して、「さぁ、乗りなよ」という感じだった。

僕はガチガチに緊張していて、「靴を脱いだ方が良いですか?」と聞いたんだ。

ハハハ! どうしてそんなことを言ったのか自分でもわからないけれど、ジズーの車だったからね!

彼も面白いと思ってくれたみたいで、「もちろんそんなことしなくても大丈夫。さあ、乗りなよ」と言ってくれた。

彼がトレーニングピッチに送ってくれている最中、僕は「俺は今、ジズーの車に乗せてもらっているんだ。ボンディ出身のキリアンが。これが現実なわけがない。きっとまだ飛行機の中で寝ているんだ」と考えていた。

現実の世界で実際に何かを体験している時も、まるで夢を見ているような気分になることがある。

ロシアでのワールドカップも、そんな体験だった。

FRANCK FIFE/AFP/Getty Images

ワールドカップは、大人としてではなく、子供のような気持ちで出る大会だ。

色々な思い出ばかりだけれど、オーストラリアとの初戦前、入場を待っている間にトンネルに立っていた瞬間は絶対に忘れない。その瞬間、これは現実なんだと思って感動した。ウスマン・デンベレと目を合わせたら、僕たちは笑顔になっていて、信じられないとばかりに首を横に振っていたよ。

僕はこう言った。「俺たちを見てみろよ。エヴルーとボンディ出身者がここにいる。ワールドカップでプレーするんだ」と。

彼は「本当だな。信じられないよ」と言った。

ピッチに向かうと、母国の6500万人が支えてくれている感じがした。ラ・マルセイエーズを聞いた時は、泣きそうになったよ。

あの夏にワールドカップを手にした選手の大半が、郊外出身というのは興味深かった。バンリュー。人種のるつぼさ。道端で多様な言語を耳にする地元。14人でも、10人でもなく、15人全員と握手する地域だ。

ボンディの子供たちへ。

イル・ド・フランスの子供たちへ。

バンリューの子供たちへ。

僕たちも、君たちも同じフランス人だ。

僕たちはクレージーな夢追い人。幸いなことに、夢を見るのにさほどお金はかからない。

それどころか、タダだ。

心より、愛を込めて。

ボンディのキリアンより

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