“手紙” あの頃の君へ ~Letter to My Younger Self~

写真:アフロ

 16歳の阿部勇樹へ。

 お元気ですか? もしかして、また試合に負けて泣いているところだったりするのかな。君はいつも泣いているよね。自分で振り返ってみても、「なんでそんなに泣くの?」って言いたくなるくらい泣き虫だった。いまはちょっと涙を拭いて、僕の話を聞いてくれるかな。

 改めて聞くよ。君の夢はなんだい? 4年前にスタートしたJリーグでプロ選手になることかな? 驚かないで聞いて欲しい。そのJリーグデビューは今年の夏に、突然訪れる。そして、40歳までプレーすることになる。その涙がすべて無駄じゃなかったんだと思える24年間だ。伝えたいことはたくさんあるけど、まずはいまの君へのアドバイスから始めよう。

 君にとっては少し前の話になるけど、高校進学をめぐって家族に大反対された「事件」があっただろ?

 君はとにかくサッカーをやることしか考えていなかったから、ジェフユナイテッド市原ユースでの活動を中心にやっていけばいいって思っていた。高校進学の意識も薄くて、サッカーの邪魔にならないところに適当に行ければいいかなっていうくらいしか頭になかったよね。気持ちは分かるよ。少しでも長くサッカーの練習をしていたいもんな。

 でも、両親からは「ちゃんと考えろ」ってたしなめられた。10歳年上の姉ちゃんは高校教師だったから、両親以上に怒って、アレコレ叱られた。あの時の姉ちゃん、怖かったよなぁ(笑)。

 反発する勇気もなくて、結局は勉強して地元の高校を受験したけど、正直、ちゃんとそういう過程を経験しておいて良かったなと思うよ。いまも高校生活を楽しんでいるところだと思うけど、クラスメイトとか先生とか、サッカー以外の世界をぐっと広げてくれたと思わない? サッカーでも、普通の部活でやっている子たちと仲良くなれた。何人かは、いまも連絡を取り合う仲なんだよ。すごいだろ。

 当たり前だけど、ジェフとは全然違う世界でさ。勉強との両立は大変だったけど、たまにサッカー以外のことを考えるのは息抜きになった。それに、サッカー、サッカー、サッカーって、16歳からそれだけになっていたら、40歳を超えるまで長く続けることはなかったかもしれない。実際、高校入学直前にも「サッカー辞めたい」って思った瞬間があっただろ?

 人間ってさ、オンとオフが必要なんだよ。サッカーでうまくいかない時も、笑い合ったり、気を紛らわしたりしてくれる存在がいるって、本当にありがたいことだよ。いっぱい助けてもらった。宝物みたいな関係だと思う。

 もちろん、たまにそれが行きすぎると「誘惑」として襲ってくることになるけど、『そこはちゃんと自分で線を引いて、サッカーと両立させるんだぞ』って言っておくけど、俺はそこのところは上手くやってきたつもりだから。

応援してくれる人たち、すべてのおもいを背負って、プロ選手はピッチに立つんだ

阿部勇樹

 それにね、プロサッカー選手になって気づいたことだけど、試合を見に来てくれるファン・サポーターの人たちの日常が、学校にはあった。サッカーが好きな人もそうでない人も居て、もしかしたら将来サッカーが好きになってくれるかもしれない人が居て。プロサッカーはファン・サポーターがいないと成り立たないものだから、いま、応援してくれる人たちの姿を想像できる自分で居られて良かったなって思うよ。

 仕事としてサッカーに関わってくれる人は、実はもっといる。練習場には毎日朝早くから清掃してくれる人がいて、練習着の洗濯をしてくれる人がいて、食事を作ってくれる人たちがいた。朝から晩まで、練習場を警備してくれる人もいた。

 コーチ、トレーナー、メディカルスタッフ、マネージャー。役職を挙げたらきりがない。直接関わることが少なくても、スポンサーという形でずっと応援してくれる人たちもいた。そういう人たちすべてのおもいを背負って、プロ選手はピッチに立つんだ。

 その分、責任も大きくなるけど、「一人じゃない」っていう感覚の方が強かったよ。たくさんの勇気をもらった。プロサッカー選手って、そうやっていろんな人を喜ばせることができるお仕事なんだよ。

写真:川窪隆一/アフロスポーツ

 少しピッチ上の話もしようか。プロデビューした日のことは、君もきっと生涯忘れられない日になるだろうから。

 1998年8月5日、君はジェフユナイテッド市原の選手として、J1ファーストステージ第16節のガンバ大阪戦に出場することになる。「16歳333日」は当時のJ1最年少出場記録だったから話題になったけど、悔しくて悔しくて、それどころじゃなかった。

 そうそう、あの時も泣いていたんだ。なんせ、2-2の同点の状況から終盤に途中出場させてもらったのに、延長戦でガンバに点を許して、負けてしまったから。一丁前に「俺のせいで負けてしまったんだ」って責任も感じていた。

 いま思うと、やっぱりまだまだ高校2年生のガキんちょだったなぁ。あ、怒るなよ。ただ、後悔しているんだ。「もっと良いプレーをしていれば」っていうことばかり考えていたことを。その原因は遠慮のしすぎにあったと、いま振り返れば分かるからさ。もっと早く気がついていれば、もっともっとチームを助けることができていたんじゃないかと思う。僕が高校生だった頃って、ジェフも毎年のように残留争いをやっていて、本当に厳しい時代だったからさ。

もっと周りを頼れ。自分の思っていることを話せ。素直に言おう。おまえ、自分の名前も「ゆうき」なんだからさ、勇気をもってちゃんと言えよ

阿部勇樹

 当時の僕は、年上の選手しかいない環境で、うまく自分を出せずにいたんだよ。試合に出たら年齢は関係ないのに、コーチングの声出しをためらってしまってね。周りも、こんな若手にいちいち教える時間もなくて。練習から、僕は一人で「これは合ってるのかな」「これは違うのかな」って見よう見まねでやっていく日々だった。

 あの頃は本当に負けた後の切り替えもすごく下手だったよなぁ。引きずりすぎていた。すべて忘れろとは言わないけど、マイナス、マイナスに考えがいくと、物事はマイナスにしか進まない。せっかく高校に行っていたのに、ピッチ上のことを忘れられずに、どこか元気なくってね。随分周りに心配をかけていたみたい。そこは気持ちを切り替えてさ。学校に居る間は、友達とダベって、リラックスして良いんだよ。それができていたら、たぶん僕の人生はもっと良くなっていたと思うよ。

 もっと周りを頼れ。自分の思っていることを話せ。素直に言おう。おまえ、自分の名前も「ゆうき」なんだからさ、勇気をもってちゃんと言えよ。自分で抱え込むのは、ある意味「逃げ」なんだ。支えて、支えられるっていう関係に、しっかり向き合ってほしい。

オシム監督によく言われていた言葉がある。「よく考えろ。考えて走って、考えてプレーしろ」

阿部勇樹

 じゃあ僕がどう乗り越えてきたかっていうと、2003年にジェフにやってきたオシム監督との出会いが大きかった。よく言われていた言葉がある。「よく考えろ。考えて走って、考えてプレーしろ」。この「考えろ」っていう言葉は、プレーだけじゃなく、サッカーから離れたところでも、長く続くことになるキャリアにおいて、自分が何をすべきか、何を決断しなければいけないのかを気づかせてくれる大事なものになる。自分が変わるきっかけをくれた人で、恩師の一人なんだ。いまから出会えるのを楽しみにしておくと良いよ。

 それと、オシム監督は近い将来、君をキャプテンに任命する。これまた、当時のJリーグでは史上最年少のことだったらしい。21歳5カ月だ。最初は大変だったけど、やっぱりキャプテンが負けをひきずっている姿を見せてはいけないって気づかされたよ。

 もうひとつ、驚きの事実を君に伝えよう。2007年に浦和レッズへ移籍することになる。いまの君には信じられないよね。でも、本当なんだ。そして、君の人生を大きく変えることになる。

クラブとファン・サポーターが一つになった時の力って、本当にすごいんだよ。日本では他になかなかないアツイ環境だと思う

阿部勇樹

 浦和は当時すでに「サッカーの街」として特別な雰囲気を持っていた。試合で負けた翌日は、外を出歩くのがちょっと怖いくらい。逆に、勝った時は街中が熱気に包まれるんだ。普段から道行く人に「がんばれよ」って声をかけてもらえたりもする。クラブとファン・サポーターが一つになった時の力って、本当にすごいんだよ。日本では他になかなかないアツイ環境だと思う。

gettyimages/Hiroki Watanabe

 勝つことがより求められるクラブでもあった。だから、余計に負けを引きずっている場合じゃないって思えたね。振り返ると、結局いつも周りの人たちや環境の変化によって、ちょっとずつ自分自身を良い方向に変えて行けたのかなって思うサッカー人生だった。だから、すごく感謝もある半面、16歳の君には「自分から変われるように気づけ」って言いたい。そうしたら、もっと素晴らしい人生になっていたんじゃないかと思うから。

 一応、僕なりに反省を生かした部分もある。自分が若い時に先輩たちとうまく話せなかった後悔があったから、年を重ねてからは、なるべく自分から若手に話しかけるようにしたんだよ。正直、自分の人見知りは昔とそんなに変わっていないから、結構ドキドキしていた部分もあったんだけど(笑)。でもね、良いやつばっかりだった。

gettyimages/Hiroki Watanabe

 実は、僕は40歳で引退を決断することになるんだけど、現役最後の瞬間、僕自身はピッチにいなかった。それでも、後輩たちが「阿部ちゃんのために」って、声をそろえて戦ってくれたんだ。シーズンが終わる前に引退会見をさせてもらっていたからね。そうしたのは、いままで関わってくれた人たちに、自分の口で感謝を伝えたかったから。完全に自分の都合だよ。でも、後輩たちは「それなら最後に天皇杯の優勝カップを掲げてほしい」ってモチベーションに変えてくれた。

 日本のサッカーシーズンってさ、大抵天皇杯決勝が一番最後じゃん? もちろん、タイトルを獲ること自体が浦和にとって重要。だけど、ルヴァン杯が終わって、リーグ戦が終わって、あぁ、もうすぐ本当に終わるんだなっていう時に、後輩たちが天皇杯を勝ち進んでくれて。準決勝から1週間、現役生活が長くなるのがうれしかった。最後は本当に天皇杯を掲げさせてもらったよ。俺、ベンチにも入れていなかったのに。最高の仲間に、最高の形で送り出してもらったよ。

たくさん失敗すればいいよ。挑戦していけ。僕自身、そうやって少しずつ強くなってきたから

阿部勇樹

 16歳の君は、もしかしたら僕より良い選択をして、僕より良い人生を送るかもしれない。でも、いまの僕もたくさん悩んで、何度も決断して、ブレずにこの道を歩んできた。ちやほやしてもらった時期もあったって自覚しているけど、自分を信じてやってきたつもり。だから、40歳まで現役を続けられたんだと思う。これは自慢なんだ。君にはできるかな?

 一つ忠告しておくとしたら、すべてが思い通りにはいかないってこと。良いことばかりじゃない。悪い時にどう逃げずに立ち向かうか。その繰り返しだと思う。最初から完璧な人なんていないから、たくさん失敗すればいいよ。挑戦していけ。僕自身、そうやって少しずつ強くなってきたから。苦しいと思うけど、サッカーが楽しいっていう気持ちだけは、忘れずに持っていてほしいな。

 いま、僕には14歳と9歳の息子が居てさ。2人ともサッカーをやってくれている。引退セレモニーでは「もう体はボロボロだったね」なんて言われて、息子ながらよく見ているなってビックリもした。2人にも、サッカーの面白さ、楽しさを忘れないでいてほしいって思っているんだ。楽しければ楽しいほど、もっともっとサッカーに集中できると思うから。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 残念ながら、泣き虫は結局直らなかった。ただ、「次は泣かない。泣くほど悔しい思いはしたくない」っていうおもいは、僕を前に進めてくれた。必要な涙だったんだと思う。だから、泣いて良いよ。心配すんな。いまは悔し涙の方が多いだろうけど、どんどん嬉し涙を流すことの方が多くなってくるから。良い意味での涙であれば、泣いていい。無理に変わろうとしなくていいんだよ。

 そうそう、左ほおにあるでっかいホクロのことなんだけど、これも気にしなくていい。思春期まっただなかの中学生の頃は、気にしちゃって、「どうしよう、搔いたら取れないかな?」とか考えていただろ? でもさ、プロになってからはそれが最大のチャームポイントになるんだよ。初めて会った人にも覚えてもらいやすいし、子どもたちが似顔絵を描いてくれた時に、たとえそれがあんまり似ていなかったとしても、ホクロがあったらそれは僕のことって分かるから。めちゃくちゃ良いだろ?

写真:アフロ

 これで、少しは16歳の君に勇気を与えることができたかな。サッカーは最高に楽しいぞ。君も最高のサッカー人生を送れることを、心から祈っているよ。

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