North London Forever

Ali Yaqub for The Players' Tribune

To Read in English (Published Feb 9, 2023), click here.

僕はいつも、アーセナルと不思議な繋がりを持ってきた。実際にクラブと契約を結ぶよりもずっと前からね。それを説明するには、このちょっとした話をするほかない。

僕はテレビゲームにのめり込んだことはなかった。僕らが子供の頃は、いつも外で遊んでいるのが普通だったからね。でもFIFAだけは、例外だった。プレーするのは大体、キャリアモード。監督になってチームを運営する、あれのことさ。

選ぶクラブはいつもアーセナルだった。僕のFIFAのチームだね。

ノルウェーで育った僕は、いつもプレミアリーグを観ていて、アーセナルに好感を抱いていた。ティエリ・アンリやインヴィンシブルズの映像も観たことがある。このクラブはファブレガスやナスリ、エジルといったプレーメイカーを育てていることも知った。実にスマートでテクニカルな彼らは、ボール扱いに秀で、難しいパスを通していた。僕と似たタイプの選手たちだね。

年齢を重ね、2015年版くらいには、僕自身、FIFAに登場するようになった。当初は、あまり僕に似ていていなくて、能力の平均値も67くらいだったと思う。でもそのゲームのなかにいること自体が特別だった。だから自然と手始めにやったことのひとつは、キャリアモードでアーセン・ベンゲルになり、僕自身を買うことだった。ハハハ!

僕とアーセナル。僕の頭のなかでは、シンプルに良い組み合わせだったんだ。

そのスペシャルな結びつきは、2年前にクラブと契約を交わした時、現実のものとなった。人生を変えた決断さ。僕は今、毎日、笑顔でトレーニングに来ている。とはいえ、僕のストーリーはキャリアモードとはまったく異なるものだ。FIFAで想像していたものとは、全然違う道筋を描いてきた。現実の人生では、自分が行きたいところを選べるわけではないし、すべてが完璧に進んでいくはずもないからね。

僕とアーセナル。僕の頭のなかでは、シンプルに良い組み合わせだったんだ。

マルティン・ウーデーゴール

人々はいつも、あの狂騒の10代の日々を、僕がノルウェーでいかに過ごしていたのかを知りたがる。率直に言って、自分にはなんて答えていいのかわからないんだ。こんなことを言うのは変だけど、当時は……それが普通だと思っていたよ。

おそらく若すぎて、世間を知らなさすぎて、状況を正確に理解できていなかったんだと思う。そういうのって、わかるでしょ?

たぶん人々は、こんな風に考えているんじゃないかな。当時の僕は、自分に対して言われたり書かれたりしていることのすべてを遮断していたのではないかと。でもそんなことはなかった。実際、僕は自分に関する記事をすべて読んでいた。文字通り、椅子に腰を沈めて、新聞を熟読していたわけだ。読後の感想は、オーケー、クール、ナイスってかんじで。本当だよ。そして自分のことに取り組んでいた。

僕は良い家族と良い友人に囲まれ、良い人生を歩んでいた。僕はただのフットボールが好きでたまらない少年だった。本当に心からこのスポーツを愛していたんだ。ほかのことがまったく目に入らなかったほどにね。ドランメンの僕の家の隣には人工芝のピッチがあった。文字通り、100メートル先にね。僕は少年時代を通して、そこで過ごした。大人になってから時々実家に帰ると、そのピッチで子供たちがおしゃべりしたり、遊びでシュートを打っていたりするのを見る。そのたびに僕は、君たちは何をやっているんだ?! と思ってしまう。だって僕や友人たちは、そんな風に遊んだりしなかったから。いつも暗くなるまで、1対1のトーナメントをしていんだ。それほど真剣だったわけだね。

Courtesy of Martin Ødegaard

僕はハンス・エリクという父親を持つ幸運にも恵まれていた。彼は僕の子供の頃のクラブ、ドランメン・ストロングのコーチで、その後は僕が13歳になるまでストレームスゴトセトでも指導をしていた。僕にとっては、赤ん坊の頃からのコーチだ。彼はノルウェーのトップディビジョンでミッドフィールダーとしてプレーしていた。だから、僕は友達と遊んでいない時は、いつも父と練習していたんだ。本当のトレーニングをね。

これを読んでいるあなたは今、それってこんな話でしょ、と思っているかもしれない。やたらと熱心な父親が毎日、息子に練習を強いていたのではないかと。でも実際は真逆だった。うるさく父と練習したがったのは、僕の方だった。彼はほかの親が知らないことを知っていたから、僕はそれを教えてもらって、自分の武器にしたかったんだ。

父はとにかく僕に、周囲を察知することと素早く足を動かすことを教えてくれた。ボールを受ける前には、必ず自分の肩越しを確認するようにと。冬になると外でプレーできなくなるので、彼は僕をインドアのスポーツホールに連れて行き、そんな反復練習に明け暮れた。父がベンチにボールを当て、跳ね返ってきた球を僕がトラップしようとすると、背後から父がプレスにくるから、僕は受ける前に周りを見て動きを調整しなければならなかった。

今、僕がディフェンダーを背負った時、然るべきタッチと瞬時の予測を用い、ターンしてかわす姿を観るだろうけど、それはこのスポーツホールで磨かれたもの。父のおかげだよ。

僕がディフェンダーを背負った時、然るべきタッチと瞬時の予測を用い、ターンしてかわす姿を観るだろうけど、それはこのスポーツホールで磨かれたもの。父のおかげだよ

マルティン・ウーデーゴール

僕は当時、最高の選手になることにものすごく集中していた。自分に才能があるのはわかっていたけど、先走ったりはしなかった。地元のクラブで友達とプレーするのを、ただただ楽しんでいたんだ。

でもその後、物事は急速に進み始めた。

13歳の時、ストレームスゴトセトでデビュー。

15歳の時、ノルウェー代表の史上最年少選手に。

周囲が騒がしくなり始めたのは、その頃からだ。

Vegard Wivestad Grott/AFP/Getty Images

オスロのウレヴォール・スタディオンで行われたEURO2016予選のブルガリア戦の残り20分に途中投入された時、2万人以上の観客がスタジアム全体で熱狂していたことを覚えている。僕がボールに触れるたび、彼らは大きな歓声を上げた。あの音は今でも耳に残っている。

実のところ、ノルウェーでは長い間、“スーパースター”がいなかったから、ファンはダンメン出身の少年の存在を知り、口々に語り、ちょっと喜びすぎていたんだと思う。彼らは僕がどんな選手かを知るよりも前に、その噂を信じたかったんだ。そんな状況が、この奇妙な興奮を生み出していたんだ。

すると興奮はさらなる興奮につながり、突如として、レアル・マドリーへの移籍が囁かれるようになった。

クラブとのやりとりはすべて、父が対応してくれた。その数は多く、僕らはバイエルン、ドルトムント、マンチェスター・ユナイテッド、リバプール、マドリー、アーセナルを回っていった。プライベートジェットで各地を訪れ、当別な気分を味わったよ。

これは嘘じゃないんだけど……、僕は実際にアーセナルを選択する寸前だったんだ。僕らがそこに着くと、ロンドンのコルニーで練習に参加し、アーセン・ベンゲルと会った。彼は僕と父をディナーに連れて行ってくれた。嬉しかったけど、不思議でもあったな。なにしろ、アーセン・ベンゲルだよ。僕が小さな頃からテレビで観ていたレジェンドと、今こうしてテーブルを挟んで一緒にステーキを食べているなんてね。僕はすごく緊張していて、変なことばかり考えていた。彼は僕をテストしているんじゃないかとか、このフレンチフライを食べたらなんて思われるだろうかとか、手をつけない方がいいんじゃないかとか。ハハハ!

これは嘘じゃないんだけど……、僕は実際にアーセナルを選択する寸前だったんだ

マルティン・ウーデーゴール

では、なぜレアル・マドリーに決めたのか。これについては、父とほかの家族と何度も話し合い、最終的にマドリーはマドリーだという結論に至ったからだ。彼らは世界のベストプレーヤーたちを擁するチャンピオンズリーグ王者だ。また当時、僕はイスコが大好きだった。とてもスムーズにボールを扱う彼もまた、僕と似たタイプの選手だ! でも本当のカギになったのは、マドリーのオファーに、加入後すぐにBチームで公式戦に出場できるとあったから。しかも当時の監督は誰だったと思う? ジネディーヌ・ジダンだ。このトータルパッケージに感じるところがあったんだ。

正式な回答をする前に、家のソファに父と座り、テレビでマドリーの試合を観ていたことを覚えている。ある時、彼は電話を握って僕の方を向き、「もうそろそろかな? 彼らに返答しようか?」と言ったよ。

僕らは移籍について本当に長く話し合っていて、ほかの素晴らしいクラブに断りを入れるのは、ものすごく辛いことだった。でも最後はそうするほかなかったんだ。

父は1, 2週間も前から、彼の携帯電話のなかに下書きをセーブしていた。それは実にシンプルなメッセージで、こんな文面だった。「もしあなた方が今もマルティンを欲しいなら、彼は入団を決心しました」

僕はただ父に「送信してよ」と言った。

Daniel Ochoa de Olza/AP Images

では、入団発表の日の話をしよう。

実際、僕は今もこの時のことが頭から離れないんだ……、でも当時、多くの人がそのことについて話していたのも知っているよ。あの時の僕の話は、インターネット上で拡散されるネタみたいなものだった。だから、ここで何が起きていたのかを明らかにしたい。

あの日の朝、クラブはノルウェーに飛行機を飛ばし、僕らを迎えにきてくれた。早朝だったから、僕は起きたけど、まだ半分眠っている状態だった。髪の毛は寝癖だらけなのに、シャワーを浴びる時間もなかった。その辺にある服を着て、よりまともな服をバッグに入れてフライトに飛び乗った。マドリードに着いたらホテルでシャワーを浴びて、着替えて、ちゃんと準備ができると思っていたんだ。

でも現地に着き、飛行機を降りたら、練習場へ直接向かっていることに気がついた。そこでメディカルチェックと記者会見をするようだ。ホテルには寄らずに。

あの時の僕の話は、インターネット上で拡散されるネタみたいなものだった。だから、ここで何が起きていたのかを明らかにしたい

マルティン・ウーデーゴール

ちょっと待ってよ、今やってしまうの? 僕はそんなかんじだった。

気がつくと、僕はマドリーのレジェンド、エミリオ・ブトラゲーニョの隣に座っていた。もちろん彼は実にスマートなスーツに身を包み、みんなで僕を世界中に紹介してくれた。

読者のあなたも、あの写真は見ただろうね。

古ぼけたストライプのセーターを着た僕は、シャワーさえ浴びていなくて、寝癖のついた髪の毛を自分の手でなんとかしようとしていた。

あれは僕の人生で一番大事な日で、その写真は世界中を駆け巡った。僕はレアル・マドリーが多くの競合を制して獲得した選手だったはずなのに、実際はスタジアムツアーを終えたばかりのどこにでもいる学生のようだった。

ブトラゲーニョが僕を紹介してくれている時、僕はこんなことを考えていた。

神様、お願いだから、このジャンパーを着替えさせてください。

誰かがこの段取りを先に言ってくれてもよかったじゃないか。

なんで誰も教えてくれなかったんだよ、と。ハハハ!

Victor Carretero/Real Madrid/Getty Images

多くの人々の前に座っていたあのとき、僕は堅信式のことも思い出していた。知らない人のために説明すると、ノルウェーでは子供が大人になったことを祝う習慣があって、僕は15歳のときにこの儀礼をしたんだ。家族や近しい友人だけで集まり、会合の最後にはその子供が来てくれた皆にスピーチで感謝を伝える。でも僕の時は、主役がかちかちに固まってしまったから、それがなかった。僕は家族の前でさえ話ができないほどシャイだった──一番気を許している人たちだというのにね! 僕はフットボールのピッチ上では自信に溢れているけど、人前で話すのは本当にだめなんだ。

それから一年後、僕はレアル・マドリーの記者会見の中心にいた。このストライプのジャンパーを着て。

笑ってしまうけど、想像できるよね?

もっとも苦手なシチュエーションにいたわけだ。見ていた人は、僕の表情に恐怖の色を感じ取っただろう。

僕が話す段になると、大きなヘッドフォンをして、ノルウェー語でまさに囁くようにこんなことを言った。「あー、そうですね……、最高に嬉しいです。えーと、ものすごく誇らしいです……」

でも風変わりな方法ではあったけれど、あのシーンによって、多くの人々が僕のことをうまく認識してくれたと思う。有名になると、人々はその人に確立されたイメージを抱きがちだ。つまりスーパーヒーローなら、なんでもできると。フットボールがうまければ、話だってうまいだろうし、自信に満ち、どんな時もすべてを与えてくれるものだろうと。でも実際はそうじゃないよね。

あの記者会見は、人々に僕がまだそこから挑戦していくような選手だということを理解させてくれたと思う。僕はただのシャイな少年だった。最近、あなたは16歳に会ったことがあるかな? 彼らならあの時の僕を理解してくれるはずだし、あれがいかに普通だったかもわかってくれるだろう。

あの会見の数日後、チームの練習に初めて参加したんだけど、正直に言って、現実のものとは思えなかった。僕は運転できる年齢じゃなかったから、イスコやロナウド、ラモス、モドリッチ、ベイル、ベンゼマらとのトレーニングへ、父に送ってもらったんだ。まるで学校に送ってもらうみたいにね。

あの記者会見は、人々に僕がまだそこから挑戦していくような選手だということを理解させてくれたと思う。僕はただのシャイな少年だった

マルティン・ウーデーゴール

僕はドレッシングルームで彼らがどう接してくれるのか、そればかりを考えていた。スペイン語を一切話さない小さな少年に対してね。でも彼らはすごく親切で、なかでも英語を話すクロースやモドリッチ、ロナウドたちは、最初からすごく目をかけてくれた。彼らはアドバイスをしてくれ、大いに助けてくれた。ただ率直に言うと、誰一人として、ノルウェーからやってきた16歳にポジションを奪われるなんて、まったく恐れていなかったと思う。

毎日、ファーストチームで練習をして、公式戦はBチームで出場する。これはクラブと共に決めたプランだった。当時は良いやり方と思えたけど、結果的に僕はどちらのグループにも居場所を見いだせなかった。

Bチームでは、普段一緒に練習していないので、味方とうまく連携できなかった。ファーストチームでは、僕は練習にだけやってくる少年で、試合には一切出場しなかった。だから少し疎外感を感じたりもした。二つのグループの狭間で身動きが取れなくなっていたんだ。

そのうちに、僕は自分の特長であるひらめきのあるプレーができなくなっていき、安全なプレーばかり選択するようになってしまった。自分の持ち味を発揮することよりも、ミスを犯すことを恐れるようになった。本来、難しいパスを通したりして違いを生み出すことこそが、僕の身上だったはずなのに。どうしてそんなことになってしまったのか、今ならその理由がわかる。僕は小さな少年だったけど、何も遠慮する必要はなかったと今なら理解できる。余計なことを考えてはだめなんだ。ピッチ上では、本当の自分の姿を見せなければならない。

それから、1, 2年が経っても、僕は成長できていなかった。

あの熱狂的な期待にすぐに応えられなかったから、報道陣に追われたよ。僕は格好のターゲットだったからね。本当の僕をわかっている人なら、僕がよく笑うことを知っているはずだけど、傍目から見たら、当時の僕は実際よりも不機嫌そうに見えることもあったかもね!僕がいかに適応に苦しんでいるのかなんて、簡単に書けたはずだよ。

こんな見出しを読んだことも覚えている。「マルティン・ウーデゴールは待ったなしの時を迎えている!」

待ったなし、だって? 僕はまだ18歳だったのに!

Ali Yaqub for the Players' Tribune (2)

僕がスペイン人だったら、もう少し成長を待ってもらえたのかもしれない。本当のところはわからないけども。結局のところ、それはモダンフットボールという狂騒を生み出すマシンの性質でしかない。そこには中間がなく、両極しかない。つまり、史上最高の新加入選手と称えられるか、まったく使い物にならないがらくたとこき下ろされるかのどちらかだ。

ひとつわかってほしいのは、僕はここでレアル・マドリーでの日々に不満を漏らしているわけではないということ。まったくね。マドリーに行って良かったと思っている。トップレベルに到達するために必要なことの多くを学んだよ。僕が憧れてきた世界のベストプレーヤーたちを見て、共に練習し、学ぶことができた。ベルナベウでもプレーした。タフになり、挑戦に立ち向かうことも学んだ。それは今の僕を形作っているものでもある。今、僕がこうしていられるのは、そのおかげでもあるんだ。

でも物事が厳しくなっていった時も、僕は大きな目標から目を逸らさないようにしていた。常に頭の中では、どうやったらこの状況を変えられるだろう、と考えていた。自分がもっとよくなるには、どうすればいい? とか。なぜなら結局のところ、僕は世界最大のクラブで練習したり、ちょっとだけ出番を与えられたりするようなことで満足できる人間じゃないからだ。僕は常に、最高の自分になるために何が必要かを考え続けていた。だから、居場所を変えることにしたんだ。

ノルウェーで頭角を現していた頃、世界中にあらゆる移籍先があるようだったけど、数年後にはもう、たくさんのクラブが僕を待っていることはないという事実を思い知らされた。

キャリアモードで遊んでいるときに、レアル・マドリーからヘーレンフェーンへ移籍するとなったら、そこには何か間違いがあると考えるだろう。オランダ・リーグを軽んじているわけではないよ! いや実際は、僕にとってファンタスティックな経験だったよ。ファーストチームでレギュラーとしてプレーでき、それはまさに僕に必要なことだった。ヘーレンフェーンでは人間として成長でき、フィテッセでは選手として成長できた。どちらにも、多くの借りがあるね。

ヘーレンフェーンでは運転免許を取り(これでもう父に練習まで送り迎えしてもらう必要がなくなった)、自分自身でいることと責任を担うことを学んだ。フィテッセでは、レオニド・スルツキ監督と出会えた。彼は素晴らしい人物で、いつもマジカルなプレーを期待したりせず、ただ僕の能力を信じてくれた。彼の下で、僕のプレー選択とチームワークが改善された。そうするうちに、また難しいパスを通せるようになっていった。

Dean Mouhtaropoulos/Getty Images

オランダでの2年半のローン期間を終え、僕はラ・リーガへ再挑戦する準備ができ、レアル・ソシエダで少なくとも2シーズン、腰を据えてプレーすることになった。最終的にそうはならなかったけどね。でもそれは美しい地域にある最高のクラブで、ファンとクラブの絆も強固だ。ある種、バスクの文化はノルウェーのそれに近いんだ。人々は一見控えめだけど、一度でも誰かを心から認めたら、その人の世話を焼き、守ってくれる。仲間の一員になるわけだね。僕はそういうのが大好きだ。

ソシエダでは良いプレーができたし、本当にハッピーだった。でも1年が過ぎたときにマドリーから呼ばれたから、このチャンスはモノにすべきだと思ったんだ。それは僕が16歳の時から追い求めていた夢だったから。

ジダン監督にはBチームにいたときによく目をかけてもらっていたし、良い関係にあったから、今回はきっとうまくと信じたかった。

でもそんなときに、コロナに罹ってしまったんだ。2020-21シーズンの最初の2試合に先発したけど、僕は完全に回復していなかった。以降、僕は最高の自分を見せられず、出番も減っていき、じきにほとんどなくなっていった。そんなとき、テレビでレアル・ソシエダの試合を観て、まだあそこにいることもできたのに、なんて考えてしまうこともあった。

実際、それは何度も考えたよ。

だから1月の移籍市場が開く前に代理人とこんな話をした。「ねえ、僕らは何か動く必要がある……、僕はここにただいるために戻ってきたわけじゃない。プレーするために戻ってきたんだ。僕はプレーして、成長を続けなければならない」

彼は僕を落ち着かせようとし、僕らはひとつの契約を破棄してマドリーに戻ってきたばかりだと言った。僕は常々、安定したいと言っていたのに、5カ月後にはまた移籍したいというのか? と。いずれにせよ、自分の心は決まっていたんだけどね。

16歳の少年に資金を投じてくれたマドリーには感謝しかない。誰もが好意的だったし、誰も咎める人はいない。でも僕は腰を据える場所を見つけなければならなかった。本当の我が家が必要だったんだ。

ノースロンドンに、それを見つけた。

Ali Yaqub for The Players' Tribune

キャリアモード。

代理人がアーセナルが興味を持ってくれていると言った瞬間、僕の心ではこの小さな記憶が蘇ったんだ。それはただ正しいことに感じた。

Zoomでミケル・アルテタ監督と話したとき、彼はプロジェクトを伝えてくれた。当時、アーセナルは苦しんでいた。リーグ戦では15位くらいに沈んでいたけど、あのミーティングは……。率直に、もしアルテタとミーティングをして、彼の言葉のすべてを信じられない人はいないと思う。

説明は難しいけど、彼は異次元の人だ。情熱的で、一生懸命で、ときにちょっとクレイジーなんだけど、彼が話をすると、それを聞いた人は、彼の言うことのすべてが現実のものとなることを理解するんだ。

彼はそのプランと未来のために築いているすべてのことを話してくれた。彼はクラブの何を変えなければならないかをしっかりと把握していた。そしてサカやマルチネッリ、スミス・ロウら、チームの素晴らしい若手についても語っていた。そして僕にどんな風にチームに加わってほしいのか、僕はいかに成長していくべきなのかも話してくれた。

彼が本当に特別な何かを伝えてくれているという強い感覚があった。

もうそれ以上、説得される必要はなかったんだけど、インスタグラムではアーセナルファンから、僕に契約するよう促すたくさんのメッセージをもらった。僕だけじゃなくて、家族全員や友人、僕がフォローしているすべての人にね! 実に驚くべき、アクティブなファンだよ。僕の知り合いたちは、「マルティンにアーセナルと契約するよう伝えてほしい」といったコメントで埋め尽くされた画面を見せてくれたものさ。

ワオ、と驚くばかりだったよ。

ひとつ言っておかなければならないのは、僕がここに来てから、ファンはずっと信じられないようなサポートをしてくれたということ。そんなものは大したことではないと思う人もいるかもしれないが、それは大きなことなんだ。エミレーツ・スタジアムでは、選手がタックルして相手ボールをスローインにするだけで、スタジアム全体がまるでゴールを奪った後のように盛り上がる。そうしたサポートにより、選手はなんでもできると自信をつけていく。

アーセナルでの最初の2020-21シーズンを8位で終えたとき、自分たちのやっていることに不信感を覚えている人はひとりもいなかった。皆、自らを信じていたんだ。それはあの計画に含まれていたことだ。昨シーズン、物事がうまくいかなかった時でさえね。もちろん、手にしかけていたチャンピオンズリーグ出場権を逃してしまったのは辛かったけど、僕らはその経験からも学びを得た。

僕たちはより団結して、強くなって、ハングリーになって戻ってきた。

Clive Rose/Getty Images

今、僕らはタイトルを争っているけど、道のりは長いし、誰も5月のことを考えたりしていない。本当だよ。よく言われることだけど、僕らは目の前の試合や練習にひとつずつ取り組んでいるだけさ。本当に、一つひとつ。

もしまだ、このチームを完全に信じ切れていない人がいたら、僕はこう言うよ。僕らが成し遂げられることに限界はない、と。逆に誰もそんなこと、僕には言う必要がないけどね。

このクラブのキャプテンを任されて、本当に誇らしい。そして僕はここで長く過ごすことになると感じている。

ボクシングデイにウェストハムを下した後、僕はベンゲルと話す機会を得た──それは彼が2018年以来、初めてエミレイツ・スタジアムに戻ってきたときのことで、僕にとっては数年前にあのステーキとフレンチフライをごちそうになって以来だった。会話は弾み、彼は僕のキャリアをつぶさに追ってくれていたと言ったよ。マドリーを選択した後もね。そして彼は正直にこうも言ってくれた。ある時点で僕にとって物事がうまくいっていないのではないかと、心配してくれていたとね。でも今は僕が正しい環境でうまくやっているのを確認して、彼もすごくハッピーだとも。

このクラブのキャプテンを任されて、本当に誇らしい。そして僕はここで長く過ごすことになると感じている

マルティン・ウーデーゴール

彼はしっかりと認識してくれていたよ。僕がノルウェーを離れてから、すべては一時的なことのように感じられた。ここで感じられるような安定や本物の深い繋がりは、今までになかったものだ。それは本当に重要なんだ。

エミレーツ・スタジアムでチームの先頭に立って入場する時、僕は自分自身でその瞬間を味わっている。雰囲気やファンの興奮を本当に感じたいから。スピーカーから流れるノースロンドン・フォーエバーをいつも聴いているし、小声で一緒に歌いだすんだ。

いつも、鳥肌が立つよ。

目を閉じて、ドランメンの人工芝のピッチに立っていた少年時代の自分を思い出す。その少年にこの瞬間の写真を見せて、これが君の未来だと教えてあげたらどうなる?

彼はいても立ってもいられなくなるだろう。

気が遠くなるような長い道のりだったけど、僕は今、自分の夢を生きている。

我が家と感じられる場所で。そして最高の瞬間は、これからやってくるんだ。

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