タイムカプセル 〜夢を持ち続ける人たちへ〜

Mari Tamehiro/The Players' Tribune Japan

 先日ふと思い出して、ある懐かしいものを読み返してみた。

 それはタイムカプセル。小学校の卒業式の日に詰め込んだ僕の夢。

-10年後の 渡邊雄太へ-
バスケットのチームは、どこに入っているんですか。
背番号は何番ですか。
NBAにいってるんですか。
身長は何cmですか。
10年後の自分はまだNBAに入ってないならがんばれ〜!

Mari Tamehiro/The Players' Tribune Japan

 小学生の僕が、未来の僕に胸を高鳴らせ送ったメッセージだ。

 ある日の夕食後、父がソファーに腰をおろして観ていたNBAの試合中継。
 そのとき確か、僕はまだ小学2年生か3年生だったはず。
「何を見ているんだろう」
 何気なく、父のそばに座って観たのがロサンゼルス・レイカーズの試合だった。
 NBAがどれほどすごい舞台なのかすら、分かっていなかったと思う。
 それでも幼い僕にとって、画面の向こうに映るプレーの数々はあまりにも衝撃的だった。

「こんなにすごい世界があるのか!」

 なかでも、スーパースター、コービー・ブライアントのプレーに釘づけになった。
「将来、NBAの選手になりたい」
 タイムカプセルに書いた夢が芽生えた瞬間だ。

 当時、僕の周りには「NBAの選手になりたい」と口にしていた小学生はたくさんいたが、中学生になると言葉にする人はいなくなった。そして更に大きくなり、現実的に将来を考えはじめる年齢にもなってくると、「何を言っているんだ」と嘲笑される、そんな時代だった。
 でも僕は、“未来の僕”に送ったメッセージを愚直に追い続けた。

バスケットボールへの情熱が継続したのは、「好き」という気持ちがあったから

渡邊雄太

 大人になった今、僕が子どもたちにいつも伝えること。
 それは「夢を持ってください」ではなく、「夢を持ち続けてください」という言葉。「続ける」ことが大切だ。
 僕は、自分の夢を中学生や高校生になっても胸のなかに持ち続け、高校卒業後に海を渡った。
 NBAの選手になるという夢を「持ち続けること」が、日々繰り返す練習の高いモチベーションであり、原動力だった。
 そしてなにより、僕のバスケットボールへの情熱が継続したのは、「好き」という気持ちがあったからに他ならない。何かを継続するためには、自発的な気持ちがないと、いつかは必ず行き詰まってしまう。

 ただ、この「好き」という気持ち、そして夢を持ち続けるためには、子どもたちだけではどうしようもない部分もあるのではないかと思っている。子どもたちだけで解決できない問題もたくさんあるからだ。

 その点では、僕の周りには心強い人たちがいてくれて、僕の夢をサポートしてくれた。

Yuta Watanabe

 子どもにとって親の存在はとても大きい。
 僕の父は、日本リーグに所属するチームの元バスケットボール選手。そして、母も日本リーグで活躍した元日本代表選手だった。二人は、ことバスケットボールに関しては、とても厳しかったが、僕の夢を否定せずにサポートしてくれた。いつも練習に付きあってくれたし、歩むべき道を示しつづけてくれた。

 毎日おこなっていた1000本のシュート練習。
 父は、夏の暑い日でも、冬の寒い日でも、何も言わずにリバウンドしたボールを返し続けてくれた。

 ときには僕も「友だちと遊びたい、ゲームをしたい」と思うこともあった。
 ただ、そんなときは、両親が必ず「雄太の夢は何だったっけ?」「遊んでばかりいると、目指しているNBAの選手になれないよ」と軌道修正をしてくれた。
 そのおかげで、僕は毎日練習することが当たり前になり、今でも、成長するために必要な努力の基準が身についている。

 当然、不甲斐ないプレーをしていると厳しく叱られることもあった。しかし、必ず最後に「おまえはやればできるんだ」という言葉を添えてくれた。子どもにとって「やればできる」と言われると、どこからともなく「自分は本当にできるんだ」という自信が湧いてくるものだ。
 幼い頃から僕にいつも寄り添い、自信を持たせ続けてくれた両親には本当に感謝している。

良い指導者に巡り合い、良い指導をしてもらえることによって子どもの人生は大きく変わっていく

渡邊雄太

 小さい子どもの手本になれるのは、やはり親だと思う。親ができないことを子どもができるはずがない。これは指導者についても言えることではないだろうか。

 良い指導者に巡り合い、良い指導をしてもらえることによって、子どもの人生は大きく変わっていく。
 小さなころから、勝利至上主義で勝ちにこだわり過ぎるバスケットを強いられると、子どもたちは本当の意味での「バスケットボールの楽しさ」を忘れてしまう。
 指導方法によって、子どもたちに「嫌い」にさせてしまう可能性も大きくあるということだ。

 良い指導者になかなか巡り合えない子どももいる。ひどい場合には、子どもにとって好ましくない指導者に巡り合ってしまうかもしれない。その状況から抜け出すのは子どもだけの力では難しい。
 そんなとき、子どもにとって最善の方法を見つけてあげられるのは、親の役目なんだと思う。
 僕もすべてを自分の判断だけで歩んできたわけではなかったし、両親のアドバイスで進んだ道で良い指導者に巡り合えたという経験からそのように感じている。

Yuta Watanabe

 僕は、中学校そして高校で、素晴らしい指導者に巡り合い、バスケットボールの楽しさを教えてもらえた。
 地元の小学校を卒業したあと、父のすすめで隣町の中学校に進学した。いわゆる越境入学というやつだ。正直なところ、そのときの僕は、地元以外の中学校に行くのはあまり気が進まなかった。でもいま振り返ってみると、結果的に隣町の中学校に進んだことで、素晴らしい指導者と出会えたので正解だった。まさに父が僕の将来を考え、最善の方法を見つけてくれたのだ。

 中学時代に指導していただいた真砂先生と平田コーチは、選手一人ひとりの将来を大事に考えてくれる指導者だった。

 今でも記憶に残っているのが、夏休み期間中に毎日おこなわれる過酷な足腰強化のトレーニング。
 厳しい夏の特訓が始まる前、真砂先生と平田コーチが僕たちを集めた。
「これから始まる厳しい練習を乗り越えたら必ず強くなれる。だから、しんどい練習をみんなで乗り越えよう」と声をかけてくれた。
 その言葉どおり、みんなで過ごした夏の練習の先に待っていたのは、自分たちでも実感できる成長だった。「頑張ったぶんだけ成長できるんだ」ということを体験し、見違えるほど強いチームに変貌を遂げた。
 真砂先生と平田コーチは、厳しい練習を通じて、僕たちに成功体験を積ませてくれたのだ。

 だからといって、お二人は選手の将来を考えて絶対に無理はさせなかった。
 僕が成長に伴う膝の関節痛に悩まされたときも、「無理は禁物」という姿勢を貫き、僕がハードな練習に参加することを許してくれなかった。
「試合に出たい」という僕のはやる気持ちをわかったうえで、将来の僕にとって何が一番大切なのかをしっかり考えてくれていたのだ。
 もし勝利至上主義の指導者であれば、目の前の勝ちのために僕に無理をさせていただろう。しかし、平田コーチは「おまえは未来で花が開けばいいんだ。未来はもっと先にあるはず。だから、今だけを考える必要はない」と言い続けてくれた。

 あのとき無理をしていれば、膝が壊れてしまったかもしれない。
 中学時代に無理をしなかったことが、いまも好きなだけバスケットボールに打ち込める体でいられる大きな理由になっていることは間違いない。
 父のアドバイスで隣町の中学校に進学し、良い指導者と巡りあえたこと。僕にとって本当に幸いだったと思う。

「失敗した人とは、成功しなかった人のことじゃなくて諦めた人のことだ」。この言葉が、どれだけ支えになったことか

渡邊雄太

 こうやって書いていくと、僕の10代はとても順風満帆に見えるかもしれない。でも、実は高校進学の過程では大きな挫折も経験していることを少しだけ触れておきたい。

 最終的に、僕は尽誠学園に進学することで色摩先生や掛け替えのない仲間との出会いをすることになる。でもそれは本当に結果論。正直に言うと、尽誠学園への進学は最後に残された選択肢だった。

 将来有望なアスリートであれば、一般的には高校進学などは選びたい放題。でも僕の場合は、父に連れられて数々の名門校の練習に参加したものの、どこでも「使えない」と言われて入学を断られていた。

 その末に入学させていただいた尽誠学園。思い描いた“タイムカプセル”からすると、想定外で挫折感を味わった時期でもあった。でも知って欲しいのは、望む通りの環境ではなくても、そこで思わぬ出会いや多くの学びがあるということ。飛び込んだ環境で頑張ることが何よりも大切だということ。今の僕は、当時の僕にそう声をかけてあげたい。

 実際に、尽誠学園で色摩先生の指導を受けられたことで、僕はひと回りもふた回りも成長することができた。バスケットボール選手として、一人の人間として。

Mari Tamehiro/The Players' Tribune Japan

 高校1年生で、僕の身長は192センチに達していた。
 日本人で190センチ台の選手は長身で、普通の指導者なら僕の身長を生かして主にリングの近い場所でプレーする5番(センター)のポジションに固定してチームをつくっていくだろう。しかし、色摩先生は、身長で選手を特定のポジションに固定するような指導をしなかった。他のチームメイトと同様、僕にもドリブルや外からのシュートの練習をさせてくれた。
 色摩先生が、こうした指導をしてくれたのには実は理由があった。「将来NBAの選手になりたい」という僕の夢を真剣に受け止めてくれていたからだ。
 アメリカでは僕の身長は決して高いとは言えない。そのアメリカで通用する選手になるためには、いま何をすべきかを考えてくれていたのだ。もし、高校時代にドリブルやシュートのスキルを磨く機会を逃していたら、いま僕がNBAでプレーすることはできていなかったと思う。

 色摩先生の指導のもとで高校3年間を過ごせたこと、そして、今まで色摩先生が僕にかけてくださった言葉の数々は、僕の大きな財産になっている。
 高校を卒業し渡米する際にかけてくださった言葉。
「失敗した人とは、成功しなかった人のことじゃなくて諦めた人のことだ」
 この言葉が、どれだけ支えになったことか。
 どんなに高い壁でも、挑戦する意味をいつも僕に教えてくれた。

Mari Tamehiro/The Players' Tribune Japan

 小学生のときに、僕がタイムカプセルに書いた一文。

「NBAにいってるんですか」

 そのメッセージに対する僕の返答は、こうだ。

「大丈夫。自分を信じて、努力を続けよう」

 たしかにNBAの選手になり、昨シーズン、トロント・ラプターズと念願の本契約を結びプレーすることもできた。ただ、ここまですべてが順風満帆にきたわけではないし、この先も何の保証があるわけでもない。

 NBAで実際にプレーしてみると、想像はしていたものの、スピード、パワー、高さなど、すべての面において桁外れだ。チームから不要と判断されたら、あっという間にカットされる。そんな厳しい世界。

 実力のある選手が生き残り、自分より力のある選手がいれば契約していても切られてしまう厳しい世界。その中で、立場的には崖っぷちという状況は変わらない。

 だからこそ、NBAで掲げる今の夢は、トロント・ラプターズの一員として優勝する原動力になること。そして、優勝したときに、「YUTAがいたから」って周りから言ってもらえるように、チームそしてNBAのなかでしっかり自分の存在感を示していきたいと思っている。

 東京オリンピックが閉幕して4ヶ月、日本代表として僕が掲げる新たな夢もある。
 それは、次のパリ五輪でメダルを獲得すること。
 軽々しく口にするべきことではない。でも僕はあえて、これを言葉にする。

 今大会3連敗で予選敗退を喫し、まだまだ世界の強豪国に勝つだけのレベルには到達していないと実感した。しかし、確実に自分たちは強くなっていることを確認できた大会でもあった。

 以前に感じていた日本代表の練習の緩さや競い合いの無さは今回一切なく、練習の激しさも過去に比べて格段に上がっていたし、チーム全員の自信もついてきた。
 やっと世界で戦うための一歩を踏み出せた、そう感じたオリンピックだった。

 ただ、あくまで一歩、踏み出しただけ。
 結果が物語っているとおり、勝てるチームにはまだまだなっていない。強豪国では、練習から激しくチーム内で競い合うことなど当たり前のことだ。ようやくそのスタートラインに立ったのだ。
 日本がパリ五輪でメダルを獲得するため、そして勝つチームになるためには、この遅れを取り戻し追い抜かなければいけないのだ。1日や数ヵ月で埋めることができる差ではないはずだ。

YUTAKA/アフロスポーツ

 次のワールドカップまで2年、そしてパリ五輪まで3年しかない。
 それまでに、この差を埋めなければならないし、埋めることができると僕は本気で思っている。それだけの成長、可能性、そして未来のメダル獲得への兆しが見えた大会だった。

 今回この記事で語った、NBA選手そして日本代表としての僕の夢。
 これが、次のタイムカプセルに詰め込む未来の自分へのメッセージ。

「夢を持ち続けてください」

 僕が子どもたちにいつも伝えるこの言葉。
 僕自身が心がける、夢を叶える大切な言葉。

 3年後には、僕も30才。一般的にNBAの選手は円熟味を増して、技術的に一番良い時期に当たると言われている。そして奇しくもパリ五輪が開催される年。
 その頃の僕には、どんな景色が見えているんだろうか。

 心の中のタイムカプセルを、再び開く日を心待ちにして。
 僕はあらゆる熱量を注ぎ込み、大好きなバスケットボールに我が身を捧げ続ける。

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