俺が戦った5人のレスラー

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 これまでもたくさんのリストを作ってきた。だけど、今回のような企画は初めてだ。過去に対戦した中で個人的に好きな相手だって?  どう考えても俺らしくないじゃないか。

 リスト作成の面白いところ。それは、食料品、子供の名前、最悪の相手、何だっていい。短くても、長くなっても、番号をつける形でも、箇条書きスタイルでも、何だって構わない。どんな形にしたっていいんだ。

 ジェリコ中毒者でもリスト中毒、愛好家でも誰でもいい。これが俺のリストだ。みんな、ぜひ楽しんでくれ。



ウルティモ・ドラゴン(WAR、1995年7月7日)

 ウルティモと出会ったのは、俺たちがCMLL(当時メキシコ最大のプロレス団体)で試合をしていた1993年だった。一緒に興行をするようになってから、俺たちがリング上で素晴らしい化学反応を起こしていたことは誰の目にも明らかだった。それから数年が経ち、俺たちは日本のWARという団体で再会した。

 WARは新日本プロレスほど知られてはいなかったが、1994年のNWAチャンピオンシップベルトをかけたタイトルマッチでの敗戦を契機に、ウルティモと俺による試合は自分のキャリアにおいて最も重要なものの一つになった。

 それから俺たちは年に何度も対戦し、素晴らしい試合を繰り広げた。結果はお互いに勝ったり、負けたりの繰り返し。時にはジュニアヘビー級の俺たちが中心の大会もあって、とても自信になった。当時はジュニアヘビー級の試合がメインイベントとして行われることなんて、ほとんどなかったからだ。ウルティモは独特で、アクロバティックなスタイルの持ち主。それでも俺たちは、どういうわけか噛み合った。俺たちがつまらない試合をするなんてあり得ないと思っていたよ。

 1995年、俺たちはWAR3周年記念大会で対戦した。その時の試合のおかげでECW、そしてWCWに行くことができた。その大会の客席にミック・フォーリーがいて、ポール・ヘイマンに俺とウルティモの試合映像を強く薦めてくれた。その後ポールは俺を招聘してくれ、契約を結び、1996年からECWに上がるようになった。

 同じ試合映像がポール・ヘイマンからジミー・ハート、ポール・オーンドーフ、そしてWCW代表のエリック・ビショフへと渡った。たった1本のテープでキャリアが変わる。そんな素晴らしいことが起こったんだ。

 その後ウルティモもWCWにやって来て、俺たちは再び名勝負を繰り広げた。でも、彼との最高の思い出は、日本で一緒に興行をしていた時期だ。



ディーン・マレンコ(Slamboree、1998年)

 ディーンは親友。彼は誰よりもひょうきんで、世界中の誰よりもおおらか。

 ところが試合で対戦すると完全に別人になる。

 プロレスの技術に関して言えば、ディーンはいつだって最高レベルだった。リング上では流れるように動き、スマートだった。でも、1998年に共に作り上げた興行が上手くいった理由は、テレビ画面越しに伝わる俺たちの相反するキャラクターにあった。

 俺がディーンからクルーザー級のベルトを奪取した後、彼はケガの治療のため約1ヶ月の休養期間を設けた。俺はというと、その間リング上でのプロモで彼を煽り続けた。ある時には巨大なディーンのポスターを持ってきて対戦を迫った。会場にディーンの姿がなくても、彼と家族に対して罵詈雑言を浴びせた。当時のWCWでは俺の行動に物申す人間なんて誰もいなかったから、やりたい放題だった。

 ディーンとやり合っていたころには、“1,004の技を持つ男”や“陰謀論の犠牲者”など、今もファンの間でウケているジェリコ・プロモも生まれた。義足を持ってリングに上がり、「これはレイ・ミステリオのものだ」と言ったこともあった。とても楽しい思い出ばかりだ。

 俺たちの最高の試合は、俺が14人参加のクルーザー級バトルロイヤルの勝者と対戦すると宣言した1998年のスラムボリーで生まれた。バトルロイヤルを制した覆面ルチャドールのシクロペが、リング中央でマスクを脱ぐと、なんとその正体はディーンだったんだ。あれは俺の中で最もビックリした復帰だったね。それにトニー・スキアボーネによるコールも最高だった。

 結果として、WCW時代の抗争で俺たちが昇格することはなかったけれど、ジェリコというキャラクターを育てる上で非常に重要だった。そのおかげで、数年後WWEに移籍した時には、次のレベルに進む準備ができていたんだ。



ショーン・マイケルズ(ノー・マーシー、2008年)

 この抗争の激しさは、まったくの別モノだ。

 本来なら数週間で終わる一度限りのものになるはずだったのに、ショーンも俺も、もっとやれるという確信があった。

 彼と初めて試合をしたのは2003年。お互いに楽しめたし、レッスルマニアXIXで素晴らしい試合ができた。でも、2008年の対戦は全く異なる残忍なものになった。全ての始まりは、ショーンがリック・フレアーを引退に導いたことだ。

 試合で目立つために何度となくやり合えば自然に盛り上がり、テレビで放送されることでさらに白熱したものに変わっていく。当時のジェリコは人気者だったWCW時代とは別人格で、よりダークでシリアスなレスラーだった。

 とても残忍で、危険な抗争だった。グレート・アメリカン・バッシュでの俺たちの試合は好勝負になり、その後2ヶ月間やりあった。その間には彼の進退に関する発表もあり、ショーンの奥さんも巻き込まれた。彼との抗争は大盛り上がりを見せて、世界ヘビー級王座がかかったノー・マーシーでのラダーマッチで結末を迎えた。

 この試合が終わるまでに7ヶ月以上の時間がかかった。

 今から100年後も、ショーンはプロレス史上に残るパフォーマーとして語り継がれているだろう。俺は今後も、彼と2008年に試合をできたことを誇りに思うね。

 今でも俺は、ショーンと自分、そしてアンダーテイカーとエッジの抗争を収録した特別版のブルーレイディスク2枚を、WWEが発売するのを待っているところさ(WWEからリリースに関する発表はないけれど、これからも楽しみに待っている)。



レイ・ミステリオ(ザ・バッシュ、2009年)

 あれは非常によくある筋書きだった。俺がレイのマスクを剥ぐというもので、まるでいじめっ子が同級生の昼食代を巻き上げるようなものだった。

 レイと俺は以前から顔見知りで、メキシコ、日本、それからWCWでも一緒だったけれど、それまで長期間のアングルを築く機会は一度もなかった。そのチャンスに恵まれた時には、すでに何年もの付き合いがあったから、俺たちは余計なギミックに頼るのではなく、プロレスの試合に焦点を当てたかった。

 メキシコのルチャ・リブレの歴史上、マスクは非常に大きな要素を占めている。ただ、それはアメリカの観客には浸透していないことだった。だから、レイと俺は何か新しいことをやるのではなく、リング外での出来事はシンプルにしようと心がけた。毎週テレビに出演するたび、俺は彼の顔からマスクを剥ごうとしたんだ。

 バックラッシュでのフェイタル・4ウェイがきっかけで、レイと俺はペイパービューの4つの興行で素晴らしいストーリーを築いた。最終的には2009年、マスクとタイトルをかけたザ・バッシュの一戦でグランドフィナーレを迎えた。

 世間からは俺たちのスタイルは噛み合わないと思われていたけれど、レイとの試合は素晴らしいものになった。そうした評価をリング上で変えていきながら、俺たちは4ヶ月間、最高のプロレスを披露できたと思う。



ケビン・オーエンズ(レッスルマニア33、2017年)

 俺たちの関係性を一言で表すならば、1980年代のデイヴィッド・リー・ロスの時代からゲーム・オブ・スローンズの“レッドウェディング”へと変わったようなものだった。

 歴代最高の選手、間抜けな相棒、お祭り騒ぎ、ゴールドバーグ、古典的な要素が何もかも揃っていた。今から約1年前の出来事だけど、ケビン・オーエンズとの抗争を俺のキャリアに含めたい。

 俺たちが一緒に興行を始めた頃、ケビンはまだWWEでは新顔だった。ただ、アメリカのインディーシーンで誰よりも知られた一人だったのは間違いない。だから実際に試合をするよりも前から、彼が相当な実力の持ち主なのは知っていた。

 なんというか、ケビンと一緒にやってみたいという直感がはたらいた。そこで、俺たちはイングランドでタッグを組んだ。俺が試合を決めた後、俺たちは花道でまるでスーパーボウルで優勝したかのように喜んだ。彼は俺をG.O.A.T.(史上最高の存在)と呼び、俺は彼の間抜けなキャラクターをイジった。ただただ面白かったし、俺たちは良い関係だった。そして一緒に駆け抜けた。

 ケビンとの関係は、ショーン・マイケルズとのような残忍で、嫌悪に満ちた、血塗られた戦いをする関係とは正反対だった。親友同士がタッグを組み、対戦相手をやっつける。自分たちがやりたいことをリストアップすることは、お互いにとってプラスだった。RAWのトップ2といわれるタイトルを保持して毎週のようにショーを独占していた時期もあった。ケビンの最も素晴らしい能力は、対応力だ。彼は道化にもなれるし、シリアスにもなれる。誰よりも情熱的にだってなれる。その万能性こそが、彼を偉大で、面白いチャンピオンへと押し上げた要因だった。

 彼が俺を裏切ったことは多くの人を驚かせた。俺たちは、それだけ大勢の人の心を掴んでいたんだ。あの夜、数えきれないくらいの人を傷心させた。もちろん、良い意味でね。ケビンほど上手にやってのけるレスラーはいない。

 俺たちはWWE側にやりたいことを毎週のように伝えていた。一歩も退くことはなかったね。もちろん反発もあったけれど、最終的には自分たちが本当にやりたかったことは全部したし、そのおかげで劇的なフィナーレを飾れたんだ。



 さて、こんなのはどうかな?  本当は5人で終えるべきなんだろうけど、最初に言ったように、リストにルールなんてない。

 だから、あと1人追加して、このサイトに掲載されたどのアスリートよりも多いリストを作ることにした。

ケニー・オメガ(レッスルキングダム12、2018年1月4日)

 WWE、メキシコ、日本、どこにいるかは関係ない。中には所属団体にとらわれない連中もいる。リング内でもリング外でも非常に優れていて、客観的に見ると思わず“Wow!”と唸るような存在がね。

 その内の一人、ウルティモ・ドラゴンについてはもう十分なくらい綴った。

 ケニーは新日本プロレスの現USヘビー級王者だ。彼と最初に会ったのは、昨年俺のポッドキャストに出てもらった時だった。それからというもの、彼は新日本の人気選手の一人から、WWEを含む各団体の域を越えて最も有名なレスラーへと成長していった。この数年、彼はプロレス史上に残る素晴らしい試合を残している。

 つまり、「クリス・ジェリコの次なる標的は?」と聞かれれば、答えは単純明快だ。

 ケニー・オメガしかいない。

 まだ対戦は実現していないが、本当に楽しみだ。こんな対戦は前代未聞だから、通常の試合とは違ったものになるだろうね。団体のテリトリー云々と言っていた時代ではあり得なかったことだ。ある団体の王者が違う団体に乗り込んで、いきなりトップのタイトルに挑戦するのだから。

 でも、実現する。もうテリトリーなんて存在しない。東京ドームで開催されるレッスルキングダム12でのクリス対ケニーは、要するにアルファ対オメガだ。

 ケニーついてはもっと語れるけれど、その必要はない。2018年1月4日、俺たちが顔を合わせる瞬間、その年のベストバウトに数えられる試合が生まれる。あるいは、歴史に残る一戦になるかもしれない。

 まあ、それは試合後にゆっくり話そうか。

*

 こんなところかな。リストに含まれた全員を称えたい。残念ながら選ばれなかった連中には、次回の幸運を祈る。ちなみに、敵対する連中のリストならいつだって作れる。

 そうだ、みなさん、ハッピーニューイヤー。

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