東京五輪で課せられた宿題

Toshimi Matsuda/The Players' Tribune Japan

 なぜ、人生で一番大切な日を、人生最悪のコンディションで迎えてしまったのか――。

 2021年7月30日。その日は、柔道人生の大一番になると見据えていた。東京オリンピック柔道男子100キロ超級の決勝が予定されていたからだ。
「東京オリンピックで金メダル」
 5年前のリオデジャネイロ・オリンピック決勝で敗れてから、そう心に決め、文字どおり人生の「すべて」を賭けて準備してきたはずだった。

 だが、僕は負けた。準決勝で敗れ、3位決定戦で敗れ、メダルにすら届かなかった。
「もう、引退しよう…」
 試合直後のメディア対応では明言しなかったものの、腹の内では決めていた。控室に戻ってから、一人、涙が止まらなかった。
 翌日に団体戦も予定していたが、心も体もついてこず、控えにまわることに。後輩のウルフ・アロンに出番を譲る形だったが、もはやそれに対する悔しさも湧いてこなかった。
「やっぱり競技者として終わりなんだ…」と、確信すらした。

 それでも――。僕はいま、再び畳の上に立っている。
 29歳。7月には30歳を迎える。アスリートとしてどこまで続けられるか、正直分からない。東京オリンピックの時と同じように、2年後のパリ・オリンピックを絶対的な目標にできているわけでもない。

 ただ、くすぶり続ける後悔と向き合ううちに、「あの日を消化しきるまでは辞められない」という考えに至った。
 あの日の経験で得た「気づき」とは何か。まだ答えは出ていないが、宿題をもらったのだと思って、道場に足を運び続けている。

100%の力を出すために調整していけばいいところを、120%の力を出そうとしていた

原沢久喜

 言い訳にしたくないと、オリンピック直後は言えなかったことがある。あの日、僕のコンディションは絶不調だった。それこそ、「人生最悪」と言えるくらい。
 頭がぼんやりし、すぐに息が上がる。思うように体を動かせない。なんとか準々決勝まで勝ち上がったところで、立ち上がれなくなった。這うような気持ちで控室に戻ると、胃が痙攣し、嘔吐してしまった。原因は今もよく分かっていない。

 準決勝の畳には立った。だが、頭でどう動けばいいのか分かっていても、体がまったくついてこなかった。一度も技をかけられないまま、延長の末に敗れた。
 30分後にあった3位決定戦は、リオの決勝で負けたフランスのテディ・リネール選手が相手。雪辱を果たすチャンスでもあったが、立て直すことはできなかった。

Kyodo News/Getty Images

  僕はコンディション管理のために、起床時の心拍数を計測することで日々の体調を確認している。思い返してみると大会前はいつもより高い数値を示していた。自覚がなかった訳ではないが、緊張の高まりやアドレナリンが出ているせいか、変なギアが入りすぎてしまい、いつものペースを取り戻せないまま大会当日を迎えていた。
 きっかけは、もしかしたら5月のゴールデンウィークごろに罹った新型コロナウイルスだったのかもしれない。症状自体はたいしたことはなかったものの、海外遠征が中止になってしまった。
 100キロ超級という階級は、日本国内で練習相手を探すことが難しい。だからこそ、海外遠征の重要度は増す。ところが、想定外に海外選手と組む機会がないまま国内調整のみで本番に向かうことになり、焦りが出てしまったのだと思う。

「もっとやらなきゃ」「こんなもんじゃ足りない」
 常にそんな思いに囚われていた気がする。本当は100%の力を出すために調整していけばいいところを、120%の力を出そうとしていた。それが当日のコンディションにも影響してしまったのではないか。
 今はそんな風に考えている。

価値がないと思っていた銀メダルも、応援してくれていた人たちを笑顔にする力を持っていた

原沢久喜

 オリンピックが終わった直後は、地獄のような日々だった。団体戦で銀メダルを獲得し、そのメンバーに入っていたために、一応「銀メダリスト」という認定がされていたのだ。控えていただけで、一度も団体戦の試合には出場しなかったのに。

 そのため、地元では「東京オリンピック銀メダリスト」として扱われた。自治体などからさまざまな賞の連絡をいただき、表彰式の案内が次々に届いた。最初はそれがいやでいやでたまらなかった。だから、「自分の力で得たものではないから」とすべて断っていた。

 ただ、地元の受け止めは少し違っていた。
「結果はどうあれ、戦う姿を見られてよかったから」「市民や県民が一丸となって応援する機会をもらえたから」
 そんな風に説得されて、重い腰を上げ、会場に足を運んだ。
 借りもののような銀メダルを首にさげ、死んだような表情をしていたと思う。それなのに、やっぱり地元の方々は喜んでくれた。
 僕にとって価値がないと思っていた銀メダルも、応援してくれていた人たちを笑顔にする力を持っていた。実際に手に取ったり見たりすることで、すごく喜んでくれた。

 この段階になってようやく、「メダルがないよりはあってよかったな」と思えるようになった。そして、「次こそ本物の、自分の力で取ったメダルを見せたい」という気持ちも芽生えてきた。応援してくださった皆さんに感謝を伝えに行ったのに、逆に元気をもらった感じだった。

「次も頑張ってね」「次こそいけるよ」
 そんな言葉もたくさんいただいた。内心、「簡単に言われても…」「もう引退しようと思ってるんだけどな…」という思いでいっぱいだったけれど、だんだん、ありがたみの方が上回るようになった。

Toshimi Matsuda/The Players' Tribune Japan

 当然、それだけで現役続行を決断できたわけではない。続けるにしても、どこをめざすか、どのレベルでやっていくのか。柔道という競技は、やっぱりオリンピックが最高峰。もう一度その舞台をめざすとなると、かなりの覚悟が必要だった。そこに自分が向かっていけるのかという葛藤があった。

 同じ100キロ超級の選手や監督、同年代の引退した選手など、さまざまな人に相談した。響いたのは、「やれるまでやった方がいい」という言葉。特に引退した選手は、「もう少しやっておけばよかった…」「もっとできたんじゃないのか…」という思いを抱えている人が少なくなかった。

 確かに僕も、あの日に最悪のコンディションにしか調整できなかったことを自分の弱さと認めつつ、気がつくと「あれが自分の実力の限界だったのだろうか」と考えこむようになっていた。それを確かめるために畳に立ちたいという思いもある。

 東京オリンピックで、結果は出なかった。ただ、一生懸命頑張ってきた過程を見てくれていた人たちはいて、自分がどれだけ柔道に向き合ってやってきたかという部分に共感してくれていた。それは無駄ではなかったんだな、一緒に戦ってくれていた仲間がいたんだなと、改めて実感した。

 結局は「現役をやっているうちが一番楽しい」という面もある。こんなにも応援してもらって、こんなにも刺激ある日々を過ごすことは、人生でそうはない。
 まだまだ、刺激を求める自分がいるんじゃないかと気づいた。今辞めてしまえば、「自分は何者なのか」という悩みの深みにはまりそうな予感もあった。

 2022年という新たな年を迎え、自然とスイッチが入ったように、大会出場への思いを持つようになった。

もっと自分を信じて、自然体で、本能のままに戦ってみたい

原沢久喜

 現役続行を決断するにあたり、自分なりに大事にしようと思ったことがある。それは、試合をしたい、勝ちたい、という思いや畳の上に立つ喜びを大切にしながら、あるがままに戦ってみよう、ということだ。

 東京オリンピックに向けて、自分の中で「勝ち方」を理論立てた戦略を考えた。僕はそこに重点を置き柔道を型にハメすぎてしまっていた。もしかしたら、セオリー通りに戦うということ自体が、自分の良さを消してしまっていたのかもしれない。

Chris Graythen/Getty Images

 今はもっと自由に、自分の生まれ持った体でどこまで戦えるのかということを、その時々の感覚を頼りに思い切り試してみたい。100キロ超級という大柄な選手が集う場ではあるが、これまでもフィジカルやスピード、技術で、海外勢にそこまで劣ると感じたこともない。
 一人の柔道家として、もっと自分を信じて、自然体で、本能のままに戦ってみたい。

人生をかけて勝利をもぎ取ろうとする姿勢は鬼気迫るものがあり、見習うべきところがある

原沢久喜

 リオオリンピックを経験してからは、柔道1本で身を立てる生活を目標としてきた。半分会社員をやりながら引退後のキャリアも保証された場所で競技をするのではなく、柔道だけで人生を切り開いていくような生活だ。

 実際、フランスのリネール選手は賞金やスポンサー料で億単位のお金を稼いでいる。スラム街があるような貧富の差が激しい国々では、柔道が貧困から脱出するきっかけになっているケースも増えている。彼らにとって、柔道は生活を豊かにする手段なのだ。
 そうした背景のある海外選手は、試合に対するハングリー精神が底知れない。人生をかけて勝利をもぎ取ろうとする姿勢は鬼気迫るものがあり、見習うべきところがあると思う。

Toshimi Matsuda/The Players' Tribune Japan

 日本はというと、ある程度恵まれた環境と待遇の中で柔道に取り組むことができる。国技ということで教育の一環として根付き、実業団や警察官といった職業とも結びついてきた歴史から、華々しい賞金や競争を重視した世界観は、なじまないのかもしれない。
 ただ、今や国際的スポーツとなった柔道は、世界各国の多様なバックボーンを持った人々が集まり、常に変化し続けている。世界では柔道はもはやプロスポーツである。金メダルを宿命とし、日本柔道の歴史や伝統の誇りを胸に戦い続けることも大切ではあるが、プロとして個を高め、突き抜けた選手になることが、強さのみでない日本柔道の価値や魅力をさらに高めることに繋がるだろう。

 こうした考えに至ったのは、元陸上選手の為末大さんに受けた影響もある。学生時代から為末さんの著書はよく読んでいた。為末さんも、陸上1本で生きていくために挑戦された方だ。
 実際にお会いしたことはないが、所属先を退社されてからの生計の立て方や、海外生活をするなかでのスポーツの価値に対する気づきなどのお話に触れ、アスリートとしての生き方に多くの刺激をもらった。

これから進む道が、トップアスリートとしては最後の挑戦になるだろう。最後に地元の企業を背負って挑めることはすごく幸せだし、運命だとも感じている

原沢久喜

 シンプルに競技に向き合う生き方に憧れ、僕自身もリオ五輪後、所属していたJRAを退所し、日本ではまれな「フリー」という立場になった。遠征費や帯同スタッフを雇うために、貯金を切り崩すだけの日々を経験した。ヒリヒリした感じをどこか楽しめる自分もいた。

 もう、競技成績や、企業ロゴを柔道着に付けて戦うだけで、スポンサーを得られる時代ではない。僕も初めはなかなかスポンサーを見つけられず、ようやく契約をもらえた後は、選手として何が提供できるのかを、以前より考えるようになった。選手としてのあり方や生き方。そこをどう示していき、如何に社会に貢献していけるかが、成績以上に大事な場合もある。

 今回新たに2022年4月1日よりメインスポンサーについてくれた長府工産は、地元・山口県下関市の企業で、今まで良い時だけでなく、落ち込んでいる時の姿も見てくれている。企業のPR活動だけでなく、柔道を通して地元に何を残せるか。人としての成長を培える土壌作りを担っていかなければならないと感じている。

Toshimi Matsuda/The Players' Tribune Japan

 これから進む道が、トップアスリートとしては最後の挑戦になるだろう。最後に地元の企業にサポートしていただき挑めることはすごく幸せだし、運命だとも感じている。
 東京オリンピックは、結果に思いを囚われすぎて自分を見失った部分があった。期待された金メダルを得ることもできず、絶望と失望の思い出しかない。
 だが、その経験も、もしかしたら僕自身の今後の動き方次第で、「意味があったんだ」といえるものに変えられるのかもしれない。

ロイター/アフロ

 以前の自分は、いつか競技生活を終えるとしたら、スパッと引退を決めるだろうと想像していた。ここまで抗うような形になるとは、思っていなかった。
 団体戦に出られなかった悔しさは、確かになかった。だけど、個人戦準決勝で敗れた悔しさは、日に日に熱を帯びてきている。

 今はただ、どうせ終わるなら、心の底から湧きあがる思いに素直になって、やりきりたい。試合に勝ちたい。強くなりたい。一人の柔道家として自分のすべてをぶつけてみたい。
 誰かのためではなく、自分の根っこの部分にとことん向き合って、一歩ずつ進んで行ければと思う。ありのまま、思うがままに。

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