MY HERO

望月仁/アフロ

 3月24日の朝、目覚めたときに届いていた母からのメッセージ。

「父さんが亡くなったから帰ってきて」

  以前、大切な人を亡くした知人から「実感がない」と聞いていたが、本当に実感が湧かない。母からのメッセージを見ても、早く帰らないといけないという焦りすら不思議と浮かばなかった。

 2020年4月、父にガンが発覚。

 すぐに手術を受け、一時は回復に向かうものの年が明けたころには病状が悪化し始めていた。

 日を追うごとに食事や水分を摂ることさえできなくなり衰弱していく。でも、僕はそんな父の姿を受け入れられずに目を背けていたのかもしれない。父は何度も奇跡を起こしてきた人だ。

「また奇跡を起こしてくれるはずだ」と信じ込みたい自分がいた。

古賀玄暉

 僕は2歳から柔道を始めた。とはいっても、そのころの記憶はない。

 アルバムに残る1枚の写真。2歳の僕が小さな体に柔道衣を身につけ試合をする姿が写っていた。もちろん、父の影響があって柔道を始めたのだと思う。父は現役引退後に古賀塾を開き、兄も妹も柔道をしているから、多くの人にとって、まさに柔道一家に映るだろう。しかし、家族といるとき父は柔道について話すことがほとんどなかった。記憶に浮かぶ父の表情は、いつも冗談を言って僕たち家族を笑わせようとする、どこか子どものようなあどけなさの残る顔だ。そして、誰に対しても本当に優しく大きな父だった。

 家族で外食したある日、店員さんが大きなミスをしたことがあった。父は、反省している店員さんに対してジョークを飛ばし、家族、そしてその店員さんをも笑顔にした。これはほんの1つのエピソードに過ぎないが、父は常に全体を見てその場を和ませてくれる。本当に強くて、器の大きな姿を僕たち家族に見せてくれていた。そんな父の周りにはいつも人が集まっていた。

「勝負は絶対に勝たないといけないもの」という教えが胸に刻まれた

古賀玄暉

 多くの人の記憶に残る“古賀稔彦”とは、“平成の三四郎”と呼ばれ不屈の精神で戦い抜く姿だろう。しかし、僕に物心がつく頃には、父はすでに現役を引退していたため、僕はその姿を知らずに育った。バルセロナ五輪の金メダルや世界選手権3連覇などの偉大な功績は、僕が柔道を続け成長するにつれて徐々に知り、当たり前のように自分の中に入っていった感覚だ。周りの人には「お父さんはすごい選手だったんだよ」と言われるが、僕たち兄妹にはごく普通の父親として接してくれていたから、そのすごさを本当の意味で知ることはできていなかったのだろうと思う。

古賀玄暉

 ただ、日常生活の中で、父がトップアスリートゆえの姿を、実は僕にも見せていたことにいまとなっては気づく。「父・“古賀稔彦”はどんな人?」って聞かれたら、もちろん冗談好きの一面も頭によぎるが、「根っからの負けず嫌い」だと答える。

 父の負けず嫌いに関しては印象的な思い出がたくさんある。例えば、父と兄と3人でランニングに出かけた際、自宅をゴールに設定して長距離を競争したときのこと。父は僕たちに話しかけて気を逸らせたかと思うと、自宅直前で猛ダッシュして一番にゴールした。

「俺が勝ったぞ。俺が一番だ」って一日中、嬉しそうに言ってくる。そんな父だ。

 僕たち兄妹が小さいころから、父の負けず嫌いな性格は変わらない。一緒に出かけたゲームセンターで、妹が「これほしいな」って指さしたUFOキャッチャーの景品を、父は取れるまで諦めなかった。父がその景品をほしいわけでもない。負けず嫌いな父は、そのゲームとの勝負に負けたくなかったのだと思う。

 そんな負けず嫌いの父ならではのエピソードはまだまだある。

 僕が中学生のころ、テレビ番組で父と高校生の兄が柔道で真剣勝負をする企画があった。金メダリストといっても父はそのときすでに現役を引退して13年。兄は高校生ながらも柔道で全国有数の強豪校の現役選手だ。

 その番組は、『息子よ俺を超えていけ』をテーマにした親子対決にも関わらず、父はそのテーマに乗る気はさらさらない。

 その対決前日、僕が見た父の姿が面白い。兄が寝たあと、父は当日に兄が着る柔道衣を持ち出して袖に足を入れ始めた。父は、その当時のルール上、兄の柔道衣が小さいのを知っていたため袖を大きく引き伸ばそうとしているのだ。柔道では袖を取ることで試合を優位に進めることができる。「あれ? 伸びねえな。こうか」などと言いながら、父は兄の柔道衣の袖を伸ばし続けていた。

 そのときの父の顔は笑いながらではあったが、そこまでする父の思いとしては、負けず嫌いがゆえによっぽど勝ちたかったのだと思う。

「やっぱりDNAが違うねー」

古賀稔彦

 僕が大会で優勝すると、父がかけてくる言葉はいつも同じだ。

「やっぱりDNAが違うねー」

 素直に褒めることの照れ隠しもあったと思うが、息子の優勝すら自分の遺伝子のおかげだと面白おかしく言ってくる。

 この言葉も、常に冗談をいう父の人柄と、負けず嫌いな一面を思い出す象徴的な言葉だ。

 そんな冗談好きで負けず嫌いな父は、昨年ガンが発覚したときも、家族に心配をかけまいと「手術をしたらすぐに良くなるから」と軽い感じで言っていた。それもあってか、「すぐに治るだろう」と僕も思っていた。

 だが、手術を受けたものの、年明けから日に日に父は小さくなっていく。

 当時、僕は実家暮らしだったため、父の様子を見ようと思えば見ることができた。

 しかし、なぜか直接話すことも、顔を見ることさえもしなかった。そのときの自分の心境は定かではないが、ただただ父を見ることができなかった。

   父が亡くなる1カ月前のこと。

「大会が終わったら研修があるんだよね」と僕が言うと、病床から父が「なおさら優勝しないといけないな。負けて研修に行くと気持ちがよくないだろうからね」と返答してくれた。同じ屋根の下で生活していたのに、まともに会話を交わしたのは久しぶりだった。

 その後、数日が過ぎ、僕は社会人生活のスタートとともに一人暮らしを始めなければならなかった。僕は、実家を出るときもまだ「親父は必ず治る」と自分に信じ込ませ、大会前であることを理由にして、どこか現実を受け入れられずにいたように思う。

 しかし、父の容体がさらに悪くなったと聞き実家に戻った日、妹から「1回、マッサージしてあげてよ」と言われ、父の手と足に久々に触れた。「ガリガリに痩せている。あの大きかった父がこんなにも小さくなったんだ」と実感した。水分を全然摂れないから身体が乾燥しきっていた。その身体にオイルを塗りマッサージを続けると「そこがいい」「そこ押して」と父が気持ちよさそうに言ってくれた。それが父との最後の会話になってしまった。

「柔道衣を着て道場で死にたい」

古賀稔彦

 その次の日、53歳という若さで父は天国へ旅立った。前日のマッサージが、僕が父にしてあげられた唯一のことだった。母から連絡を受け、実家に戻るまでは実感がなかったが、横たわる父の手に触れたとき、小さくなったその手から、はじめて父との別れを実感し涙がこぼれた。父の部屋中に飾られた家族写真を見るともっと涙が溢れてしまいそうで、僕は写真から目を背けた。

 生前に父は「柔道衣を着て道場で死にたい」と言っていた。亡くなった父を前に、家族全員がその言葉を思い出した。通夜・告別式を迎える前に父の想いを叶えたいと自然に身体が動いた。兄と僕は父の身体を持ち上げ、必死に道場へ運んだ。道場で柔道衣を着せて、大好きな焼酎を炭酸で割り、父のそばにそっと置いた。そのとき、母が「久々に柔道衣の姿を見たね」とつぶやいたことを覚えている。

 その日にできることをすべて終えると、父から「俺は大丈夫だから、玄暉、試合に集中しろよ」と言われている気がした。10日後には世界選手権の出場がかかった重要な大会がある。父の死を言い訳にはしたくなかった。その日のうちに動かさないと、大会に向けいままで作ってきた身体とモチベーションを取り戻すのが難しいと思い、ひたすら走り続けた。父が僕と同じ立場でも、おそらく同じことをしていたと思う。

 以前、父は「俺と玄暉は柔道スタイルが全然違うから俺にはわからないよ。自分の信じるスタイルが一番、玄暉らしい柔道だ」と僕に言っていた。だから、父は僕に柔道のアドバイスをほとんどしなかった。

 ただ、僕に遺してくれた父からの大きな言葉がひとつある。

 少し前までは、僕は勝ちにこだわるあまり、うまく逃げながら技数で勝とうとすることによって自分の柔道を見失っていた。

 亡くなる1週間前、父が僕にあてた言葉を母が紙に書いて渡してくれた。

「玄暉のオレ様柔道が好きです」

 この言葉は、そのときの僕の弱さを払拭するのにじゅうぶんだった。

 いつも応援してくれていた父だからこそ、そして、偉業を成し遂げてきた柔道家・古賀稔彦だからこそ、いまの僕に必要だと思って伝えてくれたひと言だったのだと思う。

 父が亡くなった後に開催された体重別選手権大会。

 父の言葉が僕の柔道スタイルを蘇らせてくれた。

 準決勝・決勝戦ともに、指導を取れば勝てる状況でも、守りに入る姿勢には一切ならず常に投げにいく果敢な柔道をすることができた。

 まさに父が好きだと言ってくれた「オレ様柔道」を貫くことができた。

 勝負に専念することが父の願いであると信じ、どこかで父の死を思い出さないように抑えこんでいた感情が、優勝した瞬間、涙とともに一気に溢れだした。

 大会前に怪我した左膝。父がバルセロナ五輪前に痛めたのも同じ左膝だということを試合後に初めて知った。もし父が生きていて、僕が試合前に相談していたとしたら、同じ左膝を痛めた父だからこそ心配して「怪我をしているなら無理はするなよ」と言っていただろう。ただ、父はこう続けるはずだ。「出場するからには優勝を目指しなさい」と。

 そして、優勝したいま、父ならなんて言ってくれるのだろうか。

 冗談交じりでいつも人を笑わそうとする、負けず嫌いな父だから、「やっぱりDNAが違うねー」と言うはずだ。

「病気にも必ず勝つ」と人生最期まで戦い続けた父。

 何ひとつ恩返しできなかった僕にできることは、父が好きだといってくれたスタイル「オレ様柔道」を貫き、結果を出すこと。

 そして、父が大切にしてきた母を兄妹で守ることだと思う。

青木紘二/アフロスポーツ

 父さんが僕に遺してくれた「玄暉のオレ様柔道が好きです」という言葉。

 そして、いつも父さんが僕に言ってくれていた「柔道家である前に、人として成長してほしい」という言葉。

 この言葉が何より、父さんから僕への大きな指導であり愛情です。

 父さんが叶えたオリンピック金メダル。

 そこから見える景色を共感できるように、これからの大会でも結果を残し続けパリ五輪で金メダルをとります。

 そのとき、父さんはきっとこう言うのでしょうね。

「やっぱりDNAが違うねー」と。

 苦笑いするしかなかったその言葉も、いまなら素直に受け止めることができます。

 父・古賀稔彦。

 僕にとって永遠に憧れの人。そのDNAを受け継いだ僕は、これからも全力で僕らしい柔道人生を歩みます。

  父さんはいつまでも『MY HERO』です。

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