僕を救ってくれた三人の恩人 ~野村監督、沙知代さん、星野監督~

Jonathan Ferrey/Getty Images

 2008(平成20)年8月23日――。

 僕はこの日を一生、忘れないと思います。この日、中国・北京ではオリンピック野球競技の試合が行われていました。日本代表チームはアメリカとの3位決定戦に臨んだものの、4対8で敗れてメダル獲得はなりませんでした。その敗因となったのが、逆転のきっかけとなった僕の落球でした。

 実はその前日に行われた韓国戦でも、僕は2つのエラーを犯しています。オリンピックの大舞台で、まさかの3つものエラー……。

金メダルの夢が僕のせいで途絶えてしまって、本当に申し訳ございませんでした

G.G.佐藤

 日本代表チームを率いる星野仙一監督は、大会前に「金メダル以外はいらない」と宣言していました。しかし、僕のエラーによって、金メダルどころか、銅メダルさえも獲ることができませんでした。最後の試合が終わってホテルに戻った後、チームメイトに合わせる顔がありません。「死にたい」という思いを抱えて迎えた翌日、日本に戻る機内において、僕のエラーがでかでかと掲載された日本のスポーツ新聞を目にしました。

 そこには、野球でエラーを意味する「E」をもじった「EE佐藤」という活字が大きく踊っていました。日本がメダルを逃した「戦犯」であるのは間違いないけれど、僕の想像以上に日本では大ごとになっているのかもしれません。本当に不謹慎なことだとはわかっていましたが、「飛行機が日本に到着せず、別の国に行ってくれたらいいのに……」という考えがふと頭をよぎりました。

 成田空港に到着するとカメラマンの放列は幾重にも続き、フラッシュの嵐に巻き込まれました。その瞬間、「やっぱり、とんでもないことになっているんだな」と実感しました。報道陣でごった返す到着ロビーをようやく脱出し、僕たちは代表チームの解団式に臨みます。壇上では星野監督が悔しそうにあいさつをしています。出国前と帰国時のテンションはまったく違っていました。その姿を見るのは、とてもとても辛いことでした。

「星野監督に謝ろう……」と、ずっと思っていました。しかし、直接自分の思いを告げる勇気が僕にはありませんでした。どんなリアクションがあるのかが想像できず、正直言えば怖かったのだと思います。だからその日の夜、自宅に戻って手紙を書きました。「金メダル以外はいらないという意気込みで、代表全員プロ選手を招集して北京に乗り込んだのに、その夢が僕のせいで途絶えてしまって本当に申し訳ございませんでした」。そんな内容だったと思います。

 このとき、「これから頑張ります」とはあえて書きませんでした。あれだけのミスを犯したのに、すぐに気持ちを切り替えているように思われるのがイヤだったからです。星野さんの事務所の住所を調べて、すぐに投函しました。その手紙がきちんと星野さんのもとに届いたのか、仮に届いていたとしても星野さんがどのように読んだのかは僕にはわかりませんでした。でも、「とにかく謝らなければ……」という一心で、僕は手紙を書いたのでした。

「そんなに責めないでよ。この子、本当は守備だって上手なんだから!」

G.G.佐藤
TAKAHIKO SATO

 日本に戻った後も、なおも「EE佐藤」の話題はワイドショーで何度も取り上げられていました。なるべく触れないようにしていたけれど、それでもイヤでも目に飛び込んできます。ある日のことでした。昼間のワイドショーで、北京五輪のことが取り上げられていたとき、やはり野球の話題となりました。このとき、スタジオにコメンテーターとして登場していたのが「サッチー」こと、野村沙知代さんでした。

 野村克也夫人として知られる沙知代さんは、歯に衣着せぬ発言で、当時はテレビに引っ張りだこでした。このとき、僕は意外な言葉を耳にします。僕のエラーを面白おかしく紹介する司会者に対して、沙知代さんは言いました。

「そんなに責めないでよ。この子、本当は守備だって上手なんだから!」

 実は僕と沙知代さんとは意外なご縁があります。中学生時代、僕は「港東ムース」というシニアリーグの強豪チームに所属していました。このチームのオーナーが沙知代さんだったのです。ご主人である克也さんも、当時はすでにヤクルトの監督でしたが、全国大会になると僕たちに指導をしてくれ、そのおかげで全国優勝も果たすことができました。

 さて、当時の沙知代さんは本当に怖いオーナーでした。今でも、僕の中には「怖い」というイメージが強烈に残っています。それでも、もう何年も経っているのに、きちんと僕のことを覚えていてくれたこと、そして孤立無援だった当時の僕をフォローしてくれたことは本当に嬉しかった。本当に感謝の思いでいっぱいでした。

野村監督が言葉をかけてくれました。「名を残したお前の勝ちや……」

G.G.佐藤

 ご主人である野村克也さんからも、北京五輪についてお言葉をかけていただく機会を得ました。それは昨年、野村さんがお亡くなりになる、わずか数週間前のことでした。僕はあるテレビ番組のドッキリ企画で、本当に久しぶりに野村監督と再会を果たしています。先ほどお話ししたように、僕は野村監督も関わっていた港東ムースに在籍していました。卒団の際には野村監督直筆の「念ずれば花開く」という色紙をいただき、今でも額装して仕事場に飾っています。

TAKAHIKO SATO

 この番組で、僕は久しぶりに野村監督と対面しました。その瞬間、自分でも意外なことに一気に涙があふれてきました。野村さんがいたからこそ、僕は高校でも大学でも野球を続けることができ、プロ野球選手にもなれたと思っています。そうした感謝の思いが、涙になって出てきたのでしょう。このとき、北京五輪の話題が出ました。野村監督は僕の目を見ながら、こんな言葉をかけてくれました。

「エラーしたお前の勝ちや。北京オリンピックに出たメンバーで、誰が世の中の人の記憶に残っている? お前と星野の2人だけや。名を残したお前の勝ちや……」

 北京五輪からすでに12年が経過していました。心の傷はかなり癒えていましたが、このときの野村監督の言葉によって、僕はやっと完全に救われたのです。

 野球は失敗のスポーツです。10回打席に立って3回ヒットを打てば一流打者と呼ばれます。つまり、7回の失敗が許されるスポーツです。ならば、その7回の失敗をどうやって次に活かすかが大切になります。

TAKAHIKO SATO

 また、失敗するというのは行動しているということの証明でもあります。野球には「バットを振らなきゃヒットは出ない」という言葉があります。バットを振れば三振も凡打もあるけど、バットを振らなければ絶対にヒットは生まれません。失敗を恐れるがあまり、何も行動しなければ、何も結果は生まれない。北京でのエラーによって多くの人を失望させ、僕自身も心に深い傷を負ったのは事実です。けれども、野村監督の言葉によって、僕はようやく前向きな気持ちを取り戻し、過去の失敗を生かしつつ、生きていこうと決意できるようになったのです。

 テレビ番組の現場で、久しぶりに対面が実現した直後、野村監督は逝きました。その間際に野村監督がお言葉を遺してくださった。それは僕にとって運命的に感じていますし、野村さん生前最後のテレビ出演の機会に同席できたことについて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

写真:アフロスポーツ

 実は、星野監督に手紙を出した翌年の春。僕は、ふとした拍子に星野さんからの優しい言葉をいただきました。開幕直前、神宮球場で行われたヤクルトとのオープン戦の試合前に、一塁側ベンチのヤクルト・宮本慎也さんにごあいさつに行ったときのことです。ご存知の通り、宮本さんは北京五輪で日本代表のキャプテンを務めていました。

 北京以来の再会となったこの瞬間、「おい、GG。星野さんに手紙を書いたそうだな」と突然宮本さんから言われました。監督とキャプテンという立場で、星野さんと宮本さんは一緒に食事でもしたのでしょうか? その経緯はわかりませんが、宮本さんは僕に星野さんの言葉を伝えてくれました。

「北京でのことは気にするな。これからは自分の野球人生を大切に、一生懸命頑張れ。野球界発展のために、自分のできることを頑張りなさい」

 星野さんからは、こんな言葉をいただきました。のちに星野さんが楽天の監督となったとき、当時ロッテに在籍していた僕が試合前のごあいさつに行くと、「おいGG、今日も楽天のためにエラーしてくれよな」と、ものすごいギャグを返してくれました。それを受けて、「いえいえ、今日はちゃんと捕ります」と僕も返す。このやり取りだけで心が救われる気分でした。

 準決勝で2つもエラーしたのに、翌日の3位決定戦でも僕をスタメン起用してくれたのは、「このままではGGがダメになってしまう」という星野さんの気遣いでした。結果的に僕を起用したことで、「星野監督は情に流された」と批判を受けることになりました。本当に申し訳なく、本当にありがたいと思っています。僕は野球を引退後、今は多くの部下を抱えるサラリーマンとなっています。あのときの星野さんのように、失敗したり、うまくできない社員についても、きちんとフォローしたいと思っています。

 野村さんも、星野さんも、期せずして「失敗を次に活かせ」ということを教えてくれました。野村さん、星野さんの教えは、今でも僕の胸に息づいています。

ミスをする前提でいろいろな対処法を事前に考えておくことはとても重要だと思います

G.G.佐藤

 さぁ、いよいよ東京オリンピックが始まります。稲葉篤紀監督率いる侍ジャパンのメンバーはどんなプレーを見せてくれるのでしょうか? かつて、手痛い目に遭ってしまった僕から、現役の侍ジャパン戦士たちに贈る言葉があるとすれば、「ミスは絶対につきものだということを想定しておいた方がいい」ということです。ミスをする前提でいろいろな対処法を事前に考えておくことはとても重要だと思います。そのために、ぜひ事前に僕のエラーシーンを何度も繰り返し見ておくことをおすすめします(苦笑)。

 北京オリンピックの手痛いエラーから13年が経過して、ようやくこうして「あのとき」のことを振り返ることができるようになりました。北京では多大な迷惑をかけてしまった星野仙一さん。中学時代の僕を覚えていてくださった野村沙知代さん。そして、最期に優しい言葉をかけて下さった野村克也さん。みなさん亡くなられてしまいましが、3人の方からかけていただいた言葉は、今でも僕の胸に息づいています。

 人生に失敗はつきものだ。大切なのは、その失敗を次にどう活かすかだ――。

 それが、13年のときを経て僕がつかんだ「教訓」であり、人生の「指針」なのです。

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