真っ赤なシャツの青年が起こした奇跡

To Read in English (Published Apr 3, 2017), please click here.

 20年前の4月13日。ゴルフの歴史上で、誰も想像すらできなかった出来事を、我々は目の当たりにした。何十年も守られ続けてきた記録を、21歳の若者が塗り替えた日だ。

 タイガー・ウッズが1997年のマスターズにおいて、ゴルフというスポーツを全くの別物に変質させてしまった。

 私が彼のコーチとなる13年前に起きた快挙だった。当時、私は彼に心酔させられたファンの1人に過ぎなかった。私はナッシュビルで大学に通いながら、同市のゲイロードスプリングスゴルフリンクスの、ゴルフショップ店員として働いていた。CBSスポーツにタイガーが映れば、その1ショットも逃すまいと、私の目は壁に据え付けられた小さなテレビにくぎ付けになっていたものだ。

 ただある程度の予想はできていた。その快挙の3年前、私はタイガーを間近に見る機会があったからだ。彼は高校の上級生だったが、私がいた大学選手向けのゴルフ講習会に足を運んでいた。

 その少年のスイングは、過去に見たどんなものとも違っていた。優雅で、ゆったりとしたバックスイング。ボールを的確に捉える際の旋回で完璧な弧を描く。ヒットした際のショット音もそれまで、いや、それから先にも聞くことのないようなものだった。トンネルから列車が飛び出してきたときのような衝撃音、とでも言おうか。全ショットだ。彼はとても美しくて高いドローボールを放った。時折、低く出すボールはまるでジェット機のようにグンと浮き上がる。スライスで高低を打ち分けるのもお手の物。ドライバーは300ヤードをかっ飛ばす。18歳の少年が、もう分子レベルでゴルフボールを制御しているようなものだった。

 彼のすごさを知っていたが、マスターズでそんなショットが打てるものだろうか? あのプレッシャーの中で、わずか21歳で…。だが、別次元だった。長いパー4の11番はウエッジで2オン、パー5の8番ホールでも、8番アイアンで2打目を乗せてきた。心底驚かされた。すべてのプレーをいとも簡単に、彼はやってのけているように見えたのだ。

 しかし、最も私の心に残った姿は、そうしたショットによるものではなかった。ショットや、パットで見せるものではない。彼自身の内面、人間としての姿勢だった。私はタイガーが披露する各ショットよりも、次の1打までの振る舞いにこそ、惹かれた。フェアウェイを歩くその姿。まるで帝王だ。画面に顔が映し出される。瞬きすらしないのではないかと思えるような眼力があった。

John Biever/Sports Illustrated/Getty Ima

 そしてその姿に、親しみを覚えたものだ。

 タイガーは母親の影響により仏教徒として育った。実は私も仏教について勉強しており、1997年と言えば、その勉強も10年を超えたころになるだろうか。その大会期間中、タイガーはとても深い、瞑想にも似た境地でいるように見えた。

 マスターズを制したタイガーがグリーンジャケットに袖を通したとき、ゴルフとはこうあるものだ、というそれまでの認識は、永遠に過去のものとなった。いま一度、あの日曜日のプレーをビデオで見返してもらいたい。ガッツポーズをするタイガー、吠えるタイガー。それまでのゴルファーが敬遠していた振る舞いが、繰り返される。そして彼の真っ赤なシャツは、タイガーが着ている、というまさにその理由によってより晴れやかに輝いて見えるはずだ。

 そこには、タイガー・ウッズのゴルフ、があった。ただそれだけだ。あの日曜日に、我々すべてがかくあるべし、としていたこのスポーツは、完璧にひっくり返された。

 歴史的勝利から20年が過ぎたことにも驚くが、私にとってさらに驚きなのは、後にタイガー本人との交流が始まるということだ。

 その交流を通じて知った彼は、さらに特筆すべき存在だった。



 私は2007年、タイガーが最強として君臨するツアーで、ティーチングプロのキャリアをスタートさせた。そのころを思い返せば、まだ誰もスタートしていないのに、もう試合は決まっているような気分にさせられたものだ。第1ラウンドを迎える木曜日の朝、練習レンジで私が誰を指導していようが、常に見せつけられる出来事は忘れられない。気分よく仕事を続けていられるのも、タイガーがちょこっとショットを打つために、レンジに現れるまでのことだ。彼のゴルフは、言いようのない得体の知れないものだ。彼と戦うとき、他の選手はどうしようもない悲運を突きつけられる。彼らは知っている。タイガーが、自分たちをこっぴどく打ちのめすことを確信していると。そしてタイガーは彼らの、その恐れすら織り込み済みだ。こうして彼は、他のプレーヤーたちのメンタルをも打ち砕いていった。

 ところが2010年、半年を超えるブランクを経てゲームに戻ってきたタイガーは、心身共に我々が知っていた彼とはまるで別人となっていた。これがタイガーかい? 故障に、手術、さらには家族の問題……。それらすべてが、代償を伴うものだった。しかしその年、彼と私がコーチ契約を結ぶことになり、共に歩み始めて、改めて思い知らされたのは、身体能力の高さより、気持ちの強さだった。

 若いころのように毎日6時間、8時間とボールを打ち続けることに、体がついていけなくなっていても、彼は以前と変わることなく進歩を求め続けた。何よりタイガーが、どうすれば集中力を高められるかを熟知していることに驚かされた。それも極限の集中だ。長年、彼はプライベートに関する話や、スイング改造に取り組む理由、さらには多くの試合に出場しながらなぜ勝てないのかなどを繰り返し問われ続けていた。ゴルファーにとって、いや、誰だってそんな状態に置かれれば、気が変になってもおかしくないはずだ。ところが、タイガーは父親の教えなのか、それとも若いうちに身につけていたものなのか、いずれにせよそうした雑音を封じるすべを持っていた。

 2012年に、それが何か、を知るところとなった。

Mike Ehrmann/Getty Images

 オリンピッククラブでの全米オープンを控えた木曜日の朝だった。いつものようにレンジで練習するタイガーのところへ出向いたのだが、その練習場は、静かだった。やや寒さを覚えるような天候もあったのだろう。少し口を開けば、周囲4~5メートルにいる人はそれを聞き取れるような、静けさだった。

 タイガーのキャディーをしていたジョー・ラカバにひと声掛け、タイガーに目を向けた。3メートルほど後ろから見た彼のショットは、文句のつけようがなかった。

「ミスターT、よさそうじゃないか」。お決まりのあいさつだ。

 が、何も起きない。こちらを振り向くことも、ほほえむことも、うなずきさえもしなかった。イヤホンをつけていたわけでもないのに。私はラカバに目を向けて聞いた。

「どうなってるのかな?」

「これでいいんだよ。試合のことしか考えてないってことだ」。彼はそう答えた。

 タイガーは、打ち続けた。ボールの行方を追う。風の感覚をつかむ。そのために、肩より上に目を向けることはある。それ以外で視線を動かすのは、グリップの確認や、練習用ボールを袋から取り出すときくらいのものだった。クラブを替えるためにキャディーバッグに近寄り、私たちが鼻先ですれ違うほどの距離に近づいたときでさえ、彼の帽子の下にある視線を確認することはできなかった。

 まるでこの世にはたったひとり、彼しかいないかのようだった。

 私とラカバは、タイガーのスイングやこのコースについて言葉を交わした。10分ほどたって、手袋を交換するためにタイガーが戻ってきた。新しい手袋をはめ、彼は立ち止まった。その日、私がレンジに着いてから、我々が目を合わせたのはこのときが初めてだった。

「フォーリー、いま来たのか。元気かい?」

 真顔でそう言ったのだ。

 想像してほしい。彼の集中力や、自己鍛錬に向かうとてつもないレベルを。耳から入ってくる音や視覚情報、匂い、その他あらゆる感覚を、自身が必要とするだけのものに制御し、それ以外を完璧に遮断する能力。

 その遮断、という作業は、彼がそうしたいという望みによるものではない。そうする必要があったからだ。その日、私は初めて理解した。タイガーがすべての雑音から逃れ、逃げ込むことができる場所は、彼の心の内にしかなかったのだ。

 いつでも、どこへ行くにも常に3人の警官に護衛される。駐車場からレンジに向かうときさえも。これが何年も続けば、さすがに嫌になるであろうことは想像できるだろう。また練習ラウンドでありながらも、彼には何百人もの熱狂的なギャラリーからあらゆる声が飛んでくる。さらに彼は想像を絶するほど何度も、手を替え品を替え(ニクラウスの世界記録)メジャー18勝への挑戦について問われてきた。これらが、タイガーをいら立たせるようになっていったのを、私も見てきた。

 誤解しないでほしい。彼のように、自身の帝国を築くことになれば、誰だってそう振る舞うだろう。私はもう一度、タイガーが世界一となる日を夢見てもいた。メジャーの優勝争いが大詰めを迎えたとき、タイガー以上のプレーができる選手などどこにもいない。ただ、友人として言わせてもらうと、タイガーにはまだまだ上を求めてほしい。人として、父親として成長し続けてほしい。日頃の振る舞いにも、例えば子どもたちがそこにいるような、注意深い配慮を忘れないでもらいたい。

 共に過ごした4年間、私は、彼が自身の欠点を改め、より良い人間になろうと努力する姿を見てきた。そして、アール・ウッズが以前語っていた、息子タイガーの未来についてのことを想起する。そして、彼が話していたことすべてをタイガーは実現し続けている。

 まだ、41歳だ。まだゴルフ界の記録を破り続けるだろうか? 私はそうなってほしい。そのとき、さらに強烈な衝撃をもたらすのだろうか? 間違いない。

 タイガー・ウッズが将来、より偉大となるであろうことを示すエピソードがある。

 私には妻ケイトとの間にキーランという息子がいる。2011年、キーランを身ごもっていた妻は、医師から「胎児に横隔膜のヘルニアがある」と告げられた。横隔膜に穴があいていて、お腹の臓器が胸に入り込み、生まれた直後から生命にかかわりかねない重大な症状だった。医師からは、20パーセントの確率で生後すぐに亡くなる可能性があると言われた。仮に命が助かったとしても、かなりの確率で、脳性まひが残るだろう、とも。

 僕たち夫婦は打ちのめされた。すべての感情を失い、その後、恐怖が襲ってきた。真の恐怖だった。

 アトランタアスレチッククラブで行われた全米プロゴルフ選手権の、2日後がキーランの誕生予定日だった。タイガーはこの試合、予選落ちとなった。その結果は、メディアからの辛辣な質問に繋がった。例えば、タイガーと私が一緒にチームとして活動するという決断が正しかったのか? タイガーはもう終わってしまったのか? タイガーはプレーに集中出来ていたのか?など。

 そしてタイガーがメディアに対応している間、私は何度もメールし、電話してケイトの具合を確認した。そして医師たちが、キーランが生まれて数日中に手術を行えると請け合ってくれた。治療を待つ我々の気持ちも劇的に軽くなる、ビッグニュースだった。新生児の集中治療室にあって、医師や看護師がそうした希望的な言葉を口にすることはまれだったからだ。とは言っても、それは、私たちがこれまでに経験してきた中で最も困難なことの1つだった。もし、彼がじゅうぶんな健康体でなければ、手術まで6週間は待たなければならない。そのためには生命維持装置を使用する必要があるし、もし生後1カ月半を乗り切ることができても、いくつもの病気を繰り返すような短い生涯になってしまう可能性が高かった。

The Foley Family

 メディアの対応をすべてタイガーに任せ、私はケイトの元へと向かった。まるで真っ暗な穴に放り込まれたような気分だった。アトランタからオーランドへのドライブは、目覚めることのできない悪夢のようだった。妻も私も、この世に生まれてくれた我が子が、その場で亡くなってしまうことがあり得ることを、覚悟していた。

 数日後、キーランは生まれた。

 幸運にも元気で、容体も安定していたため、数日中の手術が可能となった。ほっとはしたが、さまざまな医療器具につながれていた我が子の姿は、いまだに忘れることができない。

 ある日の朝、キーランを見舞い、手を洗っていたときのことだ。水を流していると、蛇口の上の壁に目が行った。メモ帳程度の、小さなプレートだった。何が書かれてあるか近くで読んでみた。

『この部屋の寄付はタイガー・ウッズ』

 即座に、感慨が湧いた。

「誰も、タイガーのこんな一面を知らないんだよな」

 我が子は、タイガーが病院に提供した部屋の中で、健康を取り戻した。我が子のために、特別に提供してくれた、というわけではなく、偶然にもあの部屋を使うことになっただけだ。それでもタイガーに謝意を伝えずにはいられなかった。彼は、同じ病院で娘が生まれた時の手厚い対応に感銘を受け、設備提供を決めたと教えてくれた。いったいどれだけの家族が、これらの部屋で命を救われただろうか。

 これが、タイガー・ウッズという人だ。

 彼のそういう側面が、もっと世に知られてもいいはずだ。彼はいろんな顔を持っており、彼を取り巻く環境もまた変化に富んだものなのだ。

Sam Greenwood/Getty Images

 私たちは長年を共に歩んだ。いいときも悪いときもあったが、そのすべての時間に感謝したい。いま、私も、多くの人と同じように、タイガーが完全に以前のような状態に戻ることが難しいのではと感じるときもないわけではない。

 ただタイガーは、すでにあらゆるタイトルを手にしている。ファンはこの先、何を求めるだろうか。彼は人生の新たな役割について満足しているように見えるし、私にはそれでじゅうぶんだ。

 真っ赤なシャツの若者が、ゴルフというスポーツに永遠の変化をもたらして20年がたつ。

 長きにわたって積み上げられた名場面の中でも、特に最高の出来事を目撃できたことを喜びたい。彼が見せてくれるものが何であれ、素直に受け入れたいものだ。スポーツ界全体を見渡しても、これほどの変革をもたらした人物は希有なはずだ。

 それも1シーズンを費やしてとか、プレーヤー人生を賭けてのものではない。あの4月の、わずか4日間で成し遂げた奇跡なのだ。

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