あの日、流した涙を忘れない

Samo Vidic/Red Bull Content Pool

 悔しくて泣くのは、あれが最後だと思う。

 4年前、僕はまだ16歳で、鈴鹿サーキットレーシングスクールの生徒だった。ホンダのフォーミュラ・ドライバー育成プログラムに入るための最終選考会。受かったら翌年の国内F4で走れるが、落ちたら……僕はあのとき、レースをやめようと思っていた。

 F1という舞台の入り口に立ったいま。振り返ってみると、あれが人生の分かれ目、ターニングポイントだった。

 その年の選考会は、すでにF4で走ったことがある経験者だけじゃなく、海外を経験して帰ってきている選手もいたので、もちろん受かるかどうかはわからなかった。

 ただ僕は4歳からずっとカートでレースをやってきて、順調に成績も収めてきた。その年、スポット参戦を許してもらったフォーミュラのデビュー戦では史上最年少で表彰台、スーパーFJ日本一決定戦では初優勝。スクールでも最終選考会まではいい結果が出ていて、それまでのポイントの合計で首席や次席、つまり一、二番手を争える位置にいた。だから最終選考でよほどのミスをしない限り上位2名に食い込めると思っていたし、最終的にはトップになる自信があった。

 僕には力がある。もしこの場で結果を出せなかったり、僕の走りで審査員の方を魅了できないんだったら、その先だって知れている。だからダメならレース人生を諦める覚悟で臨んでいた。落選しても他の育成プログラムだったり、フォーミュラ以外のレースで走ることだったり、いろんな道があったと思うけど、自分が目指す方向じゃないのは好きじゃない。中途半端でやるより、違う人生を歩むと決めていた。

 ところが最悪の結果が待っていた。当時の僕はメンタル面がすごく弱く、よりによって最終選考でそれが出てしまった。レース前から緊張して体が硬くなっているのがわかった。ステアリングを握る指先もこわばっている。いつもの自分じゃない。そんな状態でスタートした僕だったが、いきなりのフライング……。ピットロードを遅く走ってから再びコースに合流するペナルティを課せられた。もう前の集団からずいぶん離されて、1人で走っているような感じだった。自分が情けなくて、もう走ることへの感情すら湧いてこなかった。結果このレースでのポイントはほぼ0。よもやの3位、最終選考会で落選した。

Peter Fox/Getty Images

 帰りの電車の中で、悔しくて自然と涙があふれ出た。本格的にレースを始めてから、そんなことは初めてだった。参加者の中で最年少だけど、負けない自信があったのでとにかくショックだったし、これから先のことを考えようとしても何もイメージできない。帰りの新幹線では、親にも会いたくないくらい落ち込んでいたのを、いまでもハッキリと覚えている。

 ただ、ほんのひとつだけ微かな望みがあった。それは選考会後の面接で当時のホンダF4の監督がかけてくれた言葉だった。

「ホンダの育成ドライバーとしては来年レースには出られない。でもフォーミュラ4のホンダには車が4台ある。鈴鹿レーシングスクールとして走る残り2台のうちのどちらかに、もしかしたら君を乗せられるかもしれない」

 それは元F1ドライバーの中嶋悟さんが僕のことを推薦してくれたからだった。中嶋さんは当時スクールの校長で、最終選考のときに最終コーナーのシケインで僕らの走りを見ていたのだ。

 スタートでペナルティを課せられ、感情が乗らないままレースをしていた僕だったが、後悔だけはしないように懸命に走っていた。バイザー越しに、最終コーナーに立つ中嶋悟さんの姿が見えた。中嶋さんに投げやりな走りを見せたくない。絶望的な順位だけど最後まで諦めず、前の集団に向けて走り続けよう、そう思った。そして道が開けた。

 僕は2017年、育成ドライバーとしてではなく、鈴鹿レーシングからF4にエントリーすることになった。そして年間総合ランキングでいきなり総合3位に、翌2018年には育成ドライバーに選ばれ、年間チャンピオンにもなることができた。

Joe Portlock/Getty Images

 すべてはあの最終選考会で、挫折を味わったからだ。

 一番変わったことは、それはやっぱりメンタルだと思う。挫折を味わうまでの僕は成績が出ていたこともあって、何もしなくても最終的には上手くいくだろう、みたいな感じがあった。最終選考会で失敗したスタートだって、もともとスタートが得意ではないとわかっていたし、その前に練習する時間もあったのに、しなかった。どこか甘い気持ち、過信があった。それに当時はミスをすることを恐れて、ミスをしないような走りを続けていたので、さらに成長する方法がわからなくなっていた。

 選考会に落ちたことによって、やっぱり自分はまだまだ完璧じゃないし、もっともっと速くならなきゃいけないという自覚が芽生えた。ミスを恐れることなくいっぱい失敗して、そこから新たな発見をして成長することが大切だとわかった。だから、海外に渡ってから一昨年のF3や昨年のF2のシーズン序盤で、思うようにポイントが取れなかったときもまったく焦りはなかった。むしろ最初にいっぱいミスをして、そこからいっぱい学んでいくというプロセスに迷いはなかった。

 いまはインディカーで走っている元F1ドライバーの佐藤琢磨さんが「ノーアタック、ノーチャンス」と言ったことは有名だけど、まさにその通りだと思う。どんなスポーツでも限界以上に挑戦しなければ、その先のことは見つからないし、挑戦しないとそこで止まってしまう。だからいまはミスしたり結果が出ないときがあっても、不思議と苦しんでいるという感覚はない。たとえミスをしたとしても、それをどう受け止めるかは自分次第。ミスをすると原因を追究したくなる。それを克服できればもっと速くなれると思うと、悔やむ気持ちよりもっと速くなれるという思いが勝り、常にポジティブに自分自身に向き合えるんだ。

角田裕毅

 今回F1に乗れることになって、改めて思うのは両親に対する感謝の気持ちだ。僕は子どものころから動くのが好きで、水泳とかサッカーとかマウンテンバイクとか、スポーツなら何でもやっていたし、スポーツじゃないけどピアノもやっていた。いま思えば、父と母は僕が興味あることをやらせてくれていたんだと感じる。そして、カートをやり始めたきっかけも父の影響だった。父はモータースポーツが好きで自分でもジムカーナをやっていたほど。ある日、連れられて行ったサーキット場で、僕は体験カートをやらせてもらった。それが初めてだった。実はそのときポケバイも体験したんだけど、2つやってみて「カートのほうが楽しい」と僕が言ったらしい……自分では全然、覚えてないけど(笑)。

 でも、カートが嫌になった時期も……メチャメチャあった。

 たとえば7歳ぐらいのときかな。カート場の待ち時間にゲームをやっていたら、父に「もっとレースに集中して」みたいなことを言われてゲームを取り上げられ、そこで「もう嫌だな」って感じてしまった。それから父は僕をもっと上達させるために、どんどん厳しくなっていったし、いろんなことで怒られた。正直、15歳のころまでは父にもあまり感謝してなかったし、父が嫌いな時期もあった。まさに“ザ・反抗期”。その真っ只中だったんだと思う。

 学業の面では、父だけでなく母も厳しかった。モータースポーツで成功しなかった場合を考えて「勉強をしなさい」と常に言われ続けていた。僕の中学校は公欠扱いがなかったので、レースが終わればその日じゅうに帰宅して学校の支度をして、必ず学校に行って、授業に出席して、勉強してテストに臨むという生活の繰り返しだった。正直辛かったし、決して好きじゃなかったけど、それなりに勉強を続けていた。

 当時は両親に感謝の気持ちを抱けなかったけど、いまとなっては真逆の感情がある。あのころ、厳しくされたり、叱られたり、いろんなことを教えてくれたおかげでいまの僕があるんだと思える。本当にすごく感謝している。

サーキットに入ったら、ハミルトン選手もアロンソ選手も同じ1人のドライバー。敵だと思っている。

角田裕毅

 僕自身、ここまで早くF1に乗れるとは思ってなかった。日本人ドライバーとしてだけじゃなく、海外のドライバーと比べても、いまいるドライバーより最短ルートで来ている。

 7歳のときに富士スピードウェイで初めて実際にF1を見に行ったとき、ルイス・ハミルトン選手やフェルナンド・アロンソ選手が走っていた。僕はそのときも憧れとかじゃなくて「いつか、こういうドライバーたちとレースしたい」なんて思っていて、そういう気持ちはいまも変わらない。ハミルトン選手はすでに伝説の人だし、一緒に走るっていうのがすごく光栄で信じられないけど、サーキットに入ったら、ハミルトン選手もアロンソ選手も同じ1人のドライバー。敵だと思っている。

 それはいまのF1で一番速い、一番の強敵だと思っているマックス・フェルスタッペン選手や、僕が所属するアルファタウリでチームメイトのピエール・ガスリー選手に対しても同じ。どれだけフェルスタッペン選手に対応できるか、どれだけ戦えるのかを早く知りたい。ガスリー選手は僕が日本でF4を走っていたころ、日本のトップカテゴリーのスーパーフォーミュラで活躍していた選手だけど、彼からいろいろ吸収できればいいなと思う一方で、同じマシンに乗っているので、いつかは倒さなければならない、一番のライバルでもあると思っている。

 F1という世界では、結局は“速さ”を求められる。“速さ”だけじゃないといくら言っても、“速さ”を見せつければインパクトも出せるし、“速さ”さえあればレース序盤で抜かれたり離されたりしても、後半でその部分を巻き返すことができる。ただ、ここぞという場面での“速さ”を示すのが実は一番難しい。自分の最大の強みはその“速さ”なので、それに加えて自分に足りないものをどんどん吸収していきたい。

Peter Fox/Getty Images

 そう言えば、このオフにやったオンライン会見で、僕の目標が「F1チャンピオンに史上最多タイの7回以上なる」みたいな感じで大きく出ちゃったけど、あれはそういうニュアンスで言ったわけじゃないんだ。

 まだF1で1レースもやってないのに、そんなこと言えるわけない(苦笑)。

 僕がいま思っているのは、まず一戦目で自分が持っている最大限のパフォーマンスをすること。そしてシーズンを通じて1つでも多くのポイントを獲ること。F2と同じく、F1に上がってもシーズン序盤から中盤まではミスや失敗をいっぱいするだろうけど、そこで新しい発見をしてたくさん学んでいきたい。会見でそんな内容を話した後で「角田選手の野望は?」みたいな質問があったので、「ルイス・ハミルトンと同じ7回、チャンピオンを獲るとかですかね?」 と返事したのが大きく見出しになっちゃった。正確に言うと、いまはとにかく目の前のひとつひとつに集中していきたいのが本音で、その積み重ねの結果として“野望”が叶っていたら嬉しいなという感じだ。

 この先、僕にはどんな景色が見えてくるんだろう。実力をつけて、F1界を代表するレーサーに成長したいし、いまとは違ったプレッシャーだったり、モチベーションになっていくはずで、ファンの皆さんの期待もさらに大きくなるかもしれない。

 だからこそ今年、2021年に初めてF1に乗るときの気持ちを、ずっと忘れないでいたい。ルーキーのいまの気持ちを大切にして、これからも思う存分、失敗して、そこからいっぱい学んで、楽しんでいきたい。

 4年前の最終選考会に落選したときのような涙はもう、これから一生流すことはないと思う。あの日、流した涙を決して忘れない。でも、これから涙を流すとしたら、どんな涙だろう……。

 現実的に思うのは、最初に優勝したときかな? F1までたどり着くのもとても難しいことだけど、これからますます険しい道になる。優勝するのは本当に大変なことなので、これから僕が流すとしたら、それは“悔し涙”ではなく、きっと“嬉し涙”なんだろう。

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