共通の目標

この記事は2017年8月4日に英語版に掲載された記事の翻訳です。
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ほんの少しでもいいから、世界の変化に繋がることを願いながら、今日、僕は新しいことを始める。そしてこの目標のために、世界中のフットボーラーが僕に協力してくれると期待している。でもこれについて話す前に、僕にとってフットボールがどんなものかを語らないとね。

そのために、絶対に忘れることのない記憶から始めることにしよう。

あのクロスが送られた時の光景は、今でもありありと目に浮かぶ。トーマス・ミュラーの頭に当たったボールがペトル・チェフの頭上を超え、クロスバーに当たってゴールに入る。途端に爆音がした。完全に電気が走ったみたいで、自分が何を考えているのかもわからなかった。

2012年のチャンピオンズリーグ決勝の83分に、バイエルン・ミュンヘンは先制した。相手は僕が所属していたチェルシーだ。あの時の凄まじい音は、初めての聞いたものだったと思う。

数秒後、僕はアリアンツ・アレナのセンターサークルに立ち、バイエルンの選手たちがまるで勝利を収めたかのようにゴールを喜ぶ様子を眺め、それが終わるのを待っていた。僕のチームメイトのディディエ・ドログバが、リスタートのキックオフのためにこちらに寄ってきた。ディディエはそれまで一度も頭を下げたことがなかった──彼が落胆したところは見たことがなかった──けれど、この時ばかりは下を向いていたよ。僕にはそれが理解できなかった。チームは決勝に到達するまで、様々な修羅場をくぐり抜けてきたんだ。2、3か月前に前監督が解任され、ラウンド16ではナポリを逆転で下し、準決勝ではカンプノウで10人になりながらも突破。なのに、どうしたっていうんだ? これで終わったとでも思っているのかい?

僕はディディエの肩に手を置き、こう言った。「周りを見てみなよ、ディディエ。僕らがいる場所を見てみよう。頼むから、心配しないでくれよ。信じ続けよう……とにかく信じるんだ」

なぜだかよくわからないけれど、僕はずっとこう考えていた──チェルシーはこの大会で優勝することが運命づけられているのだ、と。

僕はかなりおとなしい性格だから、ディディエを励ました時、彼はそんな僕がしたことに微笑まずにはいられなかった。

「オーケー、フアン。行こうぜ」と彼は言った。

Ben Radford/Corbis/Getty Images

絶叫する5万人のドイツ人ファンに囲まれながらも、ピッチ上のディディエと僕は、チャンスが一度でもくれば、どうにかなるかもしれないと考えていた。そして5分後に、ひとつめの好機が訪れた。コーナーキックを獲得し、僕がボールを送ると、ディディエがニアポストに走り込んできて……きっとあなたも覚えているでしょ?

チェルシーのファンなら、誰もがあの時のマーティン・タイラーの実況を記憶しているはずだ。

「ドログバーーーーーーー! またしても彼らは、帽子からウサギを取り出すように、信じがたいことをやってのけた! チェルシーはチャンピオンズリーグを諦めていない!」

この同点ゴールが決まった後……僕はただ、わかっていた。同点のままPK戦に突入した時も、僕にはわかっていた。そしてディディエが最後のキックを蹴ろうとした時も、彼が決めると確信していた。蹴ったボールがネットを揺らした直後の彼の表情が、すべてを物語っていたと思う。泣いたらいいのか、笑ったらいいのか、彼にはわからなかったんだ。そこにいたすべての人々と同じように、完全に呆然自失としていたんだ。

熱狂が落ち着いてくると、僕はすぐに家族のことを考えた。その夜のスタンドには、全員が顔をそろえていた──父、母、祖父母、友達と。PK戦は彼らにストレスを与えただろう──とりわけ老いた祖母には。

あとで誰かに聞いたところでは、祖母はあまりにもナーバスになってしまい、試合が終わるまでトイレにいたらしい。

優勝を祝っている時、僕は周囲のチームメイトを眺め、これこそフットボールの美しさだと思った。チェコ出身のキーパー。セルビアやブラジルからやってきたディフェンダーたち。ガーナ人、ナイジェリア人、ポルトガル人、スペイン人、イングランド人のミッドフィールダーたち。そしてもちろん、あの信じられないほどに優れたストライカーは、コートジボワール生まれだ。

世界中から集まった僕らは、それぞれに違う環境で育ち、多くの異なる言語を話している。戦火のなかで育った選手も、貧困に苦しんだ選手もいる。でもその時は皆一緒に、ヨーロッパチャンピオンとしてドイツにいたんだ。

世界中から集まった選手たちが、共通の目標のために力を合わせたこと。それは僕にとって、あのトロフィーそのものよりも意味があるものだ。それは世界をより良いものに変えることができる何かだと、僕は考えている。



僕はとても幸運だ。スペイン北部で、ものすごく協力的な家族の下に生を受けた。父は元フットボーラーで、トリッキーなウイングだった。僕と同じ左利きで、足は僕よりも速くて(正直に認めよう)、相手に仕掛けるのが好きだったね。オビエドの実家では、父の古い試合のビデオカセットをよく観ていた。父のプレーを観ていると、フットボールは楽しそうだった。フットボールは僕にとっても、同じようなものになってほしいと思っていたよ。

子供の頃、周りの物事はすべてそうだった──そんな風に育ててもらったわけだね。父はフットボーラーだったけど、僕に強要するようなことは一度もなかった。父のフアンと母のマルタは僕と姉のパウラに、人生で起こりうるすべてのことを経験させたかったんだ。

僕の最初のサインは、フットボールに長けていたから書いたわけではない。実は僕がトリビアやクイズをとても得意としていたからなんだ──いわゆる学術的なもので、そのなかでも難しいものを。13歳の時、地域のクイズ大会に出場するチームに選抜され、200〜300の問題を解いていった。僕らは優勝し、翌日に学校へ行くと、みんなが僕らのサインを欲しがったんだ。

2、3週間後、そのチームはオーストリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、そしてスイスを巡る旅に出た。僕はその時に初めて、他国の人々の暮らしを目の当たりにした。本当に若い頃だったけど、世界の異なる見方を得ることができた。僕はすべてのことを知っていたわけではない。でももっと色々なものを見てみたい。それだけはわかっていたんだ。

15歳の頃、フットボールがそのチャンスをくれた。

Walter Bieri/Keystone/AP Images

地元アストゥリアスのチームでの試合を終えると、いつものように父がクルマで連れて帰ってくれた。ところがその時は、道順が違った。どこかの駐車場に入り、そこには別のクルマが一台だけ停まっていた。その中でひとりの男性が僕らを待っていた……見かけたことのある人だ。彼はレアル・マドリーのチーフスカウトだった。何度か僕らの試合に来ていたから、知っていたんだ。

父は彼と数分間話をし、クルマに戻ってきてこう言った。マドリーが僕を欲しがっている、と。なんのことやら、まったく意味がわからなかった。マドリー? レアル・マドリー? 僕を欲しがっている?

次の日から数日間、家族とそのことについて話し合った。母と父にとって、僕をマドリードのような大都市にひとりで住まわせるのは、辛いことだった。ただ彼らはこうとも言ったよ。「人生において、大事な列車は一度しか来ないことがある」と。

あの日、それは僕のもとにやってきた。そして一度しかそれが来ないことが、僕にはわかっていたんだ。

このことについて、僕は祖父とも話したよ。僕の最大のファンである祖父は、両親が忙しい時、僕を練習や試合に連れていってくれ、僕が出場した試合はすべて観ていた。そんな祖父は、自分の心に従うようにと言ってくれた。そしてプロのフットボーラーになりたいという夢には、リスクがつきものだ、とも。



人々がフットボールを語る時、多くの場合、カネやトロフィーがテーマになりがちだ。でもフットボールは若い人々に、それ以外のものを提供する。それは本当の人生経験だ。そして時に、本当の人生は困難だ。

マドリーのアカデミーで、僕はひとりで暮らすことを覚え、最初は数週間も両親がいない生活を送った。ひとりでいると、自分自身のことを色々と発見する。両親や祖父母が、僕のために犠牲にしてくれたことや重ねてくれたハードワークについて、何度も考えた。そして自分には、このチャンスを生かすためにハードワークする責任があるということに気づいたんだ。でもマドリーのようなクラブ──当時はベッカムやフィーゴ、ジダン、ロベルト・カルロスらが揃っていた──では、それさえも難しくなることがある。

Manuel Queimadelos Alonso/Getty Images

だから2007年に、僕はバレンシアと契約した。そこでの日々は完璧なものだったと言いたいところだけど、そうではなかったんだ。僕の最初のシーズンに、監督は3度変わった。自分は19歳で、30代なかばの選手たちに囲まれていた。家族は僕のことを心配してくれ、特に気を揉んでいた祖父は、バレンシアまで何度も試合を観に来てくれたよ。来られない時は、テレビで観戦してくれた。僕がプロになってから、祖父はたったの一度も僕の試合を見逃したことがない。ある晩、苦しんでいた僕が祖父に電話をかけると、彼はこんなことを言ってくれた。僕はその言葉を絶対に忘れない。

「フアン、君のフットボールと君のキャリアは、わしの生き甲斐なんじゃ。君の試合を観ている時、わしは本当に誇らしく、希望で満たされるんじゃよ」

この電話の影響は計り知れない──僕のフットボールに対する思いや考え方にもインパクトを与えた。僕がキャリアでやってきたことは、自分だけのためではない。自分たちのためだ。得点するだけよりも、色々な形で人々に喜びをもたらせるから、僕はプレーしてきたんだ。その感覚を体現してくれていたのが祖父であり、これに気づいてからはずっとその想いを忘れないようにしてきた。

バレンシアでの4年間は、僕にとって“修士課程”だったと考えている。なぜならその期間に、フットボールの芸術的側面を学び、人生における価値のある視座を獲得できたからね。

イングランドでの日々は、学生を終えた後に直面する本当の世界のようだった。クラブのシーズン最優秀選手に2度選ばれ、チャンピオンズリーグも制したように、最高の瞬間も味わったけど、辛い時期もあったな。ロンドンでの3年目は特にきつくて、自分のチームの序列が下がり、自信を失い始めていた。それでも誰かのせいにしたり、嫌ったりはしなかった。そんな風に育てられていないんだ。

僕は繋がりや結びつきを大切にしている。フットボールの世界では、それは時に簡単ではなくなる。チェルシーからマンチェスター・ユナイテッドに移った時、僕は前所属先のことを気にかけていた。彼らが適切な移籍金を手にしたかどうかが気になったし、ロンドンの人々とのコネクションを維持したいと思ったんだ。それが今も出来ていたらいいね。

でも僕は今、レッドデビルズの一員だ。そしてこれ以上に誇らしいことはないと思っているよ。世界にはいくつかの偉大なクラブ、そしてマンチェスター・ユナイテッドがある。それが意味するところは、すぐにわかった。ユナイテッドでの2シーズン目に、僕はアンフィールドでリバプールを相手にオーバーヘッドキックでゴールを決めたんだ。すると今では、人々が最初にこれについて話しかけてくるようになった──世界のどこにいようとも。僕はスペインの小さな街で生まれ、そこでは数千人くらいの人々が僕の得点を観ていたけれど、今の僕がゴールを奪えば、オビエドからロサンゼルス、北京からメルボルンまで、世界中の人々がそれを目にすることになる。ユナイテッドのファンは世界中にいるからね。そしてほぼ毎日、フットボールの持つ力は世界中の人々を団結させるために使われなければならないと思うんだ。

Alex Livesey/Getty Images

世界にはいくつかの偉大なクラブ、そしてマンチェスター・ユナイテッドがある。

マンチェスターで暮らしていると、毎年、ユナイテッドのサポーターへの愛情が募っていく。あのリバプール戦のような瞬間を、彼らに提供することができて幸せだよ。そして2月には、マンチェスターの人々に助けてもらった。

その頃、祖父──僕がプロになってからすべての試合を観戦していた人だ──の体調が悪くなっていた。敵地でのヨーロッパリーグのサンテティエンヌ戦を1-0で勝利した後、僕はバスで祖父とフェイスタイムで話していた。彼の声はか細く……僕は状態が心配だった。祖父はゆっくりと言葉を発しながらも、僕のヘンリク・ムヒタリアンへのアシストを大いに褒めてくれたよ。

おそらくあれは、僕の人生でもっとも特別なアシストとなった。なぜなら、祖父が最後に観たものだったから。あの試合の数日後に、祖父は天に召されたんだ。

人間は人生で重要なことが起きると、その時にどこで何をしていたかを覚えているものだよね。だから、あの試合からバスで帰宅するまでの一部始終を、僕は覚えているんだ。次に祖父に会う時に、そのことを話したいと思っているよ。

その後、僕は祖父の葬式に出るためにスペインに戻った。マンチェスターに帰ってくると、僕は携帯電話の電源を入れ、SNS上でユナイテッドのサポーターから僕に送られたすべてのメッセージを読んだ。それは僕の世界そのものだ。メッセージを送ってくれた全員とハグしたかったよ。

次に予定されていたサウサンプトンとのリーグカップの一戦には、僕も出場して勝利を掴んだ。でも試合後には、どことなく虚しさを感じてしまった。勝利を共有してきた祖父は、もういない。フットボールでも人生でも、僕は家族と一緒に素晴らしい時間を共に味わってきた。それこそ、僕が一番誇りに感じていることなんだ。なのに、あの試合の後には、どうしても話したかった祖父と言葉を交わすことができなかった。だからその代わりに、僕は過去を振り返ってみたんだ。

Clive Rose/Getty Images

フットボールが僕に与えてくれたすべての物事や、自分が残したいレガシーについて。こんな選択ができた自分は、本当に幸運だったと思う──それにうちのような家族は、誰もが持っているわけではないことも知っている。そして僕はこれまでにもチャリティーに参加してきたけれど、もっともっとやりたいと感じてきた。僕に訪れたようなチャンスが、ほかの子供たちにも与えられるように。

だから今日から、僕は自分のサラリーの1%を合同投資ファンド『Common Goal』に寄付することを誓うよ。世界中のフットボール・チャリティーを支える非政府組織『streetfootballworld』に運営されているファンドで、彼らには受賞歴もあるんだ。これはシェアすることによって世界を変えようとする、小さなジェスチャーだ。

僕は同業者のプロの仲間たちの賛同を募って、Common Goal スターティングイレブンを作りたいと思っている。みんなで協力すれば、フットボール界全体にとって欠かすことのできない共有された価値に基づくムーブメントを、起こせるはずだ。それは恒久的なもとなる。

僕は発起人だけど、ひとりにはなりたくない。

夢を叶えるにはチームが必要だ──これは僕がフットボールから最初に学んだ物事のひとつだ。選手たちはこのマントラによってピッチ上を生きているけれど、社会にはちょっと足りない気がする。『Common Goal』はフットボールが社会に組織的に還元しようとする方法を、作り出そうとしているんだ。フットボールが長期的に世界中の社会に良い影響を与えるための、もっとも効果的でサステナブルな方法だ。フットボールにはそれだけの力がある。そのためには、みんなで協力しなければならない。

今は選手からの協力に尽力しているところだけど、ゆくゆくはフットボール界全体の売上からグラスルーツへのチャリティーには、1%の制限を取り除きたい。スポーツの力で地域コミュニティーが強化されるように。

先月、僕はインドのムンバイを訪れ、同じようなチャリティーに参加した。主要都市の郊外にあるスラム街へ行ったけれど、最初はなぜあれほどの貧困が存在するのかさえ理解できなかった。いかなる子供も、あのような環境で育つべきではない。劣悪なコンディションを目の当たりにして、こちらまで辛くなってしまった。

でもそこから地元の子供たちと触れ合ったんだ。彼らの英語は素晴らしいものではなかったし、僕がフットボーラーだと知っていたかどうかもわからなかったけれど、僕らは笑顔とフットボールでコミュニケーションをした。僕が笑ったら、彼らも笑った。僕が走ったら、彼らも走ったんだ。

彼らは僕らが助けに来たことを知っていて、そこでは目に見えるエネルギーがあったよ。そして、僕が祖父に生きがいを与えたように、そこの子供たちは僕に生きがいをくれたように思えた。

だから今、僕は同業者の仲間たちに協力を呼びかけたい。僕らが実に多くのチャンスに恵まれたのは、シンプルに子供たちの遊びをプレーしていたからだ。僕らは自分の夢を生きることができて、本当にラッキーなんだ。だから僕と一緒に、子供たちがどんなところでも、光と喜びに満ちた経験を味わえるように手助けしよう。そうすることによって、僕らはフットボール界の内外に『Common Goal』が必要で、今後もっと必要になると示すことができるんだ。なぜなら、これは正しい行いだからね。



Common Goalについての詳細とチームへの参加方法について:http://www.common-goal.org/

Streetworldfootballの活動支援について:http://www.streetfootballworld.org/donate-now 

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