僕に語らせてよ

Sam Robles/The Players' Tribune

To read in English (Published Apr 15, 2019), please click here.

僕は残酷なほど、正直な人間だ。だから、ここで小さな秘密を教えてあげるよ。マンチェスター・シティに加入するまで、ラヒーム・スターリングという男について、僕は何も知らなかったんだ。それまで一度も会ったことがなかったし、英国のメディアが書く彼の人物像からすると、ずいぶん変わった性格を持つ人なんだろうと思っていた。

そう思っていたんだけど、実際は……。

彼が悪いヤツだとは、まったく考えていなかった。ただタブロイド紙はいつも、スターリングは傲慢だと主張していた。だから僕は彼のことを……英語では何て呼ぶのかな?

A bit of a dickhead って感じかな?

ラヒームと僕は、すごく強い関係で結ばれているんだ。なぜなら、僕らはシティにほぼ同時期に加入したし、当初はどちらもメディアからネガティブなことを言われていた。曰く、僕は“チェルシーで失敗した選手” で、派手好きなラヒームはカネのためにリバプールを去った選手。そして二人とも、気難しいキャラクターだ、と。

もちろんこんな記事を読むと、え? 僕は気難しくないよ と思ってしまうよね。本当に馬鹿馬鹿しい。だって彼らは、僕のことを何も知らないんだよ! ただ率直に言って、他の選手のことを読むと、その選手への印象が変わってしまう。それは仕方ないことだ。

でもシティでラヒームと実際に顔を合わせ、練習後に話をすると、僕はこう思った。ちょっと待て、こいつはとてもクールじゃないか? 一体、どういうことなんだ? と。

正直に明かすと、僕には親友が少ない──フットボールの内外で。僕が他人に心を開くまでには、実に長い時間を要する。でもラヒームとは、時が経つにつれて親しくなっていった。それぞれの息子がほぼ同時期に生まれ、いつも一緒に遊んでいたこともあってね。ラヒームについて深く知るようになると、僕は彼が実に賢く、誠実な人間だということに気づいていった。彼はタブロイド紙が言っているような人物では、まったくない。

ここに真実がある──僕がフットボールの世界で出会った人の中で、ラヒームは一番優しくて、もっとも地に足のついた男のひとりだ。

Peter Powell/EPA/Shutterstock

ある日、僕らが話している時、ラヒームはこう言った。「なあ、僕は君のことを誤解していたよ。実際に会うまでは、よそよそしく、シャイな人なんだろうと思っていた。でも本当の君はすごく面白い」

「僕にはドライなユーモアがあるんだ」と僕。

「ものすごくドライだけどね」と彼。

「じゃあ、僕のことはどう考えていた?」

「正直に言っていいかな? かなり傲慢なヤツだと思っていたよ」と僕。

「おい!」と彼は僕をまっすぐに見て言った。

「え? 君も僕を変なヤツだと思っていたくせに!」と僕も彼を見つめて言い返したよ。

これは良い教訓になったと僕は思っている。経験から言って、フットボーラーは自分が想像していたような人物ではないことがある。特に、その選手を深く知るようになると。

それは僕自身にも完全に当てはまることだ。

ラヒームがなぜ、僕は気難しい人間だろうと考えていたのか、自分には理解できる。16歳の頃から、僕の周りには暗雲が漂っていたんだ。

この話をする前に、僕にとって自分のことを語るのが、世界で一番困難なことだとわかってほしい。フットボールについてなら、何時間も話せるんだけどね。でも個人的なことを話すのは、簡単じゃないんだ。

ここに真実がある──僕がフットボールの世界で出会った人の中で、ラヒームは一番優しくて、もっとも地に足のついた男のひとりだ。

ケヴィン・デ・ブライネ

それは単に僕の性質だ。読者の方のなかにも、同じようなタイプの人はいるだろうけどね。

子供の頃から、僕は極めておとなしく、極めてシャイだった。プレイステーションも持っていなかったし、親しい友達も少なかった。自分を表現する方法は、フットボールを通してだけで、僕はそれで満足だったんだ。ピッチ外の僕は実に内向的で、誰にも一切、話しかけたりしなかった。でもピッチ上では、ものすごく熱くなった。僕がダビド・シルバに「僕に語らせてよ!」と叫ぶ動画を観て、みんなが笑っているのは知っている。でも子供の頃と比べたら、それはとても従順な姿だね。

若い頃には……なんていうか、人々に誤解されることがあっても、うまく理解できないものだよね。僕はこれについて、かなりきつい形で学んだよ。

14歳の時、僕は人生を変える選択をした。ヘンクのフットボール・アカデミーに行く機会があり、ベルギーの端から端までひとりで移ったんだ。実家から2時間かかったけど、両親に行きたいと告げた。

問題は当時から僕がシャイだったことにある。ヘンクでは、国の反対側からやって来た変な方言を使う新人だった。孤独だったよ。唯一の休日の日曜日には家族に会いに実家へ戻っていたから、社交性を身につけることもできなかった。だからそのアカデミーでの最初の2年間は、これまででもっとも孤独な日々だったんじゃないかな。

たぶんそんな僕の行動を異常だと考える人もいるだろう。なぜ14歳でそんなことをしたの? と訊かれるかもしれない。

その答えはひとつしかないよ。僕はフットボールをしていれば、すべてを忘れられたんだ。いかなる問題も、どんな感覚も、すべて消えていった。フットボールをしてさえいれば、すべては良好だった。それを執着と言うのなら、おそらくそうだったんだろうね。

実にシンプルに、これが僕の人生なんだ。

Sam Robles/The Players' Tribune

1年目は、ベッドと机、そしてシンクがあるだけの小さな部屋を寄宿先としていた。翌年にはクラブの計らいにより、里親の家に住めることになった。僕とほかの二人の選手がそこに移り、まともな暮らしを送れた。

その頃も僕はほとんどの時間をひとりで過ごしていたけど、すべてがスムーズに進んでいると思っていた。学校もフットボールもうまくいっていたし、喧嘩や問題とは無縁だった。

その年の最後に、僕は身支度をして、里親に別れを告げた。

すると彼らは、「休暇明けに会いましょう。夏を楽しんで」と言った。

でも僕が実家に戻ると、母さんが泣いていたんだ。きっと誰かが亡くなったんだろうと思ったよ。

「どうしたの?」と僕が尋ねた後に母さんが返した言葉は、おそらく僕の人生を形作った。

「あの人たちは、あなたに戻ってきてほしくないと思っている」と母さんは言った。

「言っている意味がわからないんだけど」と僕。

「あの里親たちは、もうあなたに戻ってきて欲しくないんだって」と母さん。

「なに? なんでだよ?」と僕。

「それはあなた自身のせいなのよ。あなたは静かすぎて、コミュニケーションが取れないと、

彼らは言った。あなたは難しい子だとも言ったわ」と母さんは言った。

これは本当にショックだったよ。人格を否定されているように感じた。里親は僕に直接、何も言ってこなかった。問題はなにもなかった。僕は自分の部屋にいたし、誰かを困らせるようなこともしなかった。彼らは何事もなかったように手を振って別れの挨拶をした。なのに、クラブには僕に戻ってこないようにと伝えたんだ。

実際それは僕のキャリアにとって、とてつもなく大きな問題だった。なぜかというと、僕はビッグスターではなかったし、そこにきて突然、クラブは僕が問題だと考え始めたのだから。彼らは僕の両親に、また別の里親を融通することはないと知らせ、僕はほかの寄宿先で生活を再開しなければならなくなった。そこは素敵な部屋ではなく、素行の悪い子供たちが送還されるような場所だった。

母さんが泣いていたことを覚えている。僕はボールを持って外に出て、子供の頃からひとりで遊んでいたフェンスに来た。

本当に辛かったのは、こう言われたことだ。

「それはあなた自身のせいなのよ」

その言葉は、僕の頭の中でずっと鳴り響いていた。

僕はフェンスに向かって何時間もボールを蹴り、そのうち大声でこう叫んでいた。「すべてはうまくいくさ。2カ月のうちにファーストチームに上がる。なにがあっても、僕が失意のうちに実家に戻ることはない。絶対に」

夏休みが終わると、僕はヘンクに戻り、すぐにセカンドチームへ昇格した。僕は何者でもなかったけど、信じられないくらいトレーニングに励んだ。自分のなかで熱く燃えたぎる炎を感じていた。狂人のように。

すべてが変わった瞬間のことを覚えている。チームは金曜日の夜に試合をしていて、僕はベンチスタートだった。後半に出場すると、僕は狂ったようにプレーした。

1ゴール。

あの人たちは、あなたに戻ってきてほしくない。

2ゴール。

静かすぎる。

3ゴール。

難しい子。

4ゴール。

あの人たちは、あなたに戻ってきてほしくない。

5ゴール。

それはあなた自身のせい。

僕は後半だけで5得点を決めた。

Yves Logghe/AP Images

以降、クラブ関係者全員の僕を見る目が変わった。そして2カ月のうちに、ファーストチームの一員になれた。実際はほんの数日で目標を達成したわけだね。もちろん、クラブは僕の両親にまた里親を提供すると伝えたよ。

フットボールでは、良いプレーをすると、人々が態度をガラッと変えることがある。なんだか面白いよね。

ある日、例の里親がクラブにやってきて、あの女性は僕に近づいてきた。まるで、すべては大きな誤解だったとでも言わんばかりに。実際に、こんなことを言ったよ。「私たちはあなたの帰りを待っていたのよ! 平日だけ寄宿舎で過ごしてほしかっただけなの! 週末は私たちと一緒に過ごしましょう!」

もしかしたら、面白いと感じるべきところだったのかもしれないけれど、当時の僕にはそうとは思えなかった。彼女たちは僕を深く傷つけたんだ。だから僕はこう返した。「いや、あなたは僕を捨てたじゃないか。僕の調子が良くなった今、戻ってきてほしいだなんて」

最後に、ありがとう、くらい言っておけばよかったかもね。その経験は僕のキャリアの原動力になったけど、残念ながら、その後も暗雲が完全に晴れるまでには時間がかかった。ヘンクでプレーしていた時も、チェルシーと契約を結んだ時も、ベルギーのメディアは僕がいかに気難しい人間であるかを物語る記事を書き立てた。そこでは常に、件の里親の話が語られていた。

時々、僕が爆発してしまうのは事実だ。とりわけピッチ上でね。僕は物事をうちに秘めておくタイプだから、時にそれが暴発し、取り乱してしまうんだ。でも大体いつも、5秒後には平静を取り戻している。でもちょっと誤解されているような気もする。僕がフットボールの世界でやってきたことは、たったひとつのためなんだ──プレーしたくて、たまらないからさ。

チェルシーにいた頃、メディアは僕とジョゼ・モウリーニョ監督の関係について、実に多くのことを報じた。でも実際に、僕が彼と話したのはたったの2回だけ。僕のプランは期限付きで別のクラブでプレーすることだったから、2012年にブレーメンへ移り、最高のシーズンを送った。シーズン後にチェルシーへ戻ると、ドイツの複数のクラブが僕と契約を結びたがった。クロップはボルシア・ドルトムントに誘ってくれたし、彼らは僕が楽しめそうなフットボールを展開していた。だから、チェルシーが移籍を認めてくれるだろうと思っていた。

ところが、モウリーニョは僕にこんなショートメッセージを送ってきた。「君はここに残留する。このチームの一部になってほしい」

そうなんだ、いいね。監督の構想に入っているなら、最高じゃないか。そんな風に思ったよ。

プレシーズンに参加したとき、調子はよかった。シーズン開幕後、最初の4試合のうち、2試合に先発し、最高とは言えないまでも、かなり良いプレーができたと感じていた。でも4試合目で、すべてが終わった。以降はベンチを温めることになり、チャンスは一度も与えられなかった。説明もなかった。僕はただ、なにかしらの理由で使われなくなったんだ。

もちろん、僕にも落ち度はあった。その頃はまだプレミアリーグのフットボーラーとして、自分をどう律すればいいのかわかっていなかったからね。多くのファンは知らないと思うけど、チーム内で序列が下がると、トレーニングでの注目度も下がるものなんだ。いくつかのクラブでは、いなくなった人のように扱われることもある。

もし今、それが起きても、問題にはならない。自分ひとりでトレーニングできるし、体のケアもできる。でも当時は21歳だったから、何をすればいいのか、まるでわかっていなかった。スウィンドン・タウンとのカップ戦で出場機会をもらったのに、僕は不振に終わった。僕のなかではもう、そこで終わってしまった。

12月になると、ジョゼは僕を彼のオフィスに呼んだ。それは僕にとって、2度目の人生を変える瞬間になった。彼はいくつかの新聞を見せて、こう言ったよ。「1アシスト。0ゴール。ボールを奪い返したのは10回」

彼の意図を理解するのに、少し時間がかかった。

次にウィリアンやオスカル、マタ、シュールレというほかのアタッカーたちのスタッツも読み始めた。5ゴール、10アシスト、とかなんとか。

ジョゼは返答を待っていたから、僕はこう言った。「でも……それらの選手の中には15試合や20試合に出場している人もいますよね。僕はたったの3試合。スタッツに差があって、当然ではないですか?」

すごく変な感じだったよ。彼は僕を再びローンに出す可能性についても、少し話した。それからマタも出番を制限されていたので、ジョゼはこう言った。「いいか、もしマタが去れば、君は6番目のチョイスから、5番目になる」

僕は完全に率直に、次のように言った。「クラブに必要とされていると感じられません。僕はフットボールをプレーしたい。僕を売ってくれた方がいい」

ジョゼはちょっとがっかりしていたようだけど、彼も僕にプレー時間が絶対的に必要だと理解してくれたと思う。だから結局、クラブは僕を売却し、誰も困ることはなかった。チェルシーは僕を獲得するために費やした額の倍以上の移籍金を得たし、僕は自分にとってより良い状況をヴォルフスブルクで得たのだから。

そこで、すべては変わったよ。フットボール以外の側面にも変化があり、僕は(未来の)妻と暮らすようになったんだ。彼女のおかげで、僕はそれまでにできなかったような表現を学んだ──彼女に対してもできなかったことを。本当に恥ずかしい話だから、明かすのを躊躇しているよ! でも僕はここで正直になることを約束したから、話さないとね。いずれにせよ、とても面白い話なんだ。

まずはツイッターの話からしないとね。当時、ヴェルダー・ブレーメンに期限付きで在籍していた僕のアカウントには、数千人くらいしかフォロワーがいなかった。そこで試合かなにかについてつぶやいた時、この可愛い女の子がお気に入りに登録してくれたんだ。その頃の僕はシングルで、これに気づいた友達が、こんなことを言ったよ。「彼女は良い子に見えるな。メッセージを送るべきだよ」

僕は頑なに拒んだ。「いやいやいや、頼むよ。僕のことを好きになる人なんて、いないよ。理解してくれる人もいないに決まっている。彼女は返事をしてくれないはずだ」

でも彼は僕の携帯を掴んで、メッセージを打ち始め、それを見せてこう言った。「いいだろ、送っちゃうよ?」

たしか、僕は床に座って戸惑っていたけど、ふいにいいかなと思った。「いいよ、わかった。送ってよ」と僕は告げた。

これがすべてを物語っているよね? 僕はフットボーラーとしてビッグになろうとしていたのに、未来の奥さんにメッセージを送ることさえできなかった!勇気がなかったんだ!

幸運なことに、彼が僕に代わって送ったメッセージに、彼女は返事をくれた。最初の数カ月は、メッセージをやりとりしてお互いのことを知るようになった。誰かのことを深く知るようになると、僕は安心できるから、その後は順調だった。それは本当に美しいことだった。彼女は本当に多くの意味で、僕の人生を変えてくれた。率直に言って、彼女がいなかったら、僕がどうなっていたのかわからないくらいさ。

Sam Robles/The Players' Tribune

人々はフットボーラーの妻や恋人に “WAGs” というレッテルを貼るけど、これはすごく残念なことだと思う。なぜなら、僕にとって妻が人生でもっとも大事な人だから。彼女は19歳の時に僕と一緒に住み始め、僕の夢の成就を手助けしれくれた。僕らはこの旅路を二人で一緒に歩んできたんだ。ある意味、彼女には頭が上がらないよ。彼女のおかげで、僕は自分の殻を破って人々と付き合えるようになった。そして彼女はすべての物事を実に手際よく行うんだ。本当だよ。

2015年の移籍期間に、彼女が最初の子供を妊娠していることを僕らは知った。マンチェスター・シティ、パリ・サンジェルマン、バイエルンが僕に興味を持っていた。それは大きなストレスを感じる日々だった。これから家族を築き上げていくという時に、僕の新天地がどこになるかわからず、どこに住むかも知れなかったわけだから。

個人的には、シティに行きたいと思っていた。ヴィニー・コンパニがメッセージを送ってきて、クラブのプロジェクトを教えてくれ、きっと僕も共感できると思うと言ったよ。また僕自身、このクラブには好印象を持っていたんだ。でもヴォルフスブルクに敬意を欠くようなことはしたくなかった。あそこでの日々を心から愛していたからね。だから、僕はただ口をつむり、待つことにした。僕の得意なことだけどね!

その3週間、文字通り毎日、僕の代理人はこんな感じだった。「決まりそうだ。いや、まだだ。ついに来たかな。いや、やっぱりまだだ」

そのストレスは妻に支障をもたらした。ある朝、目が覚めると、妻がひどく体調を崩していた。何をしたらいいかわからず、もしかしたら、お腹の中の赤ん坊に何か悪いことが起きてしまったのかもしれないと心配になった。

次第に彼女は激痛を感じ、出血し始めた。状況がわからなかったので、僕らは病院へ急いだ。もしかしたら、流産してしまったのかもしれないと、気が気ではなかった。まちがいなく、僕の人生で最悪の時間だった。僕にできることは何もなく、ただ座っているだけ。フットボールの移籍のことが頭をよぎったかと思えば、次の瞬間には突然、絶望がやってくる。そんな時間だった。

幸いなことに、最後はすべてがうまくいった。息子も問題なし。

息子がいなければ、僕はどうなっていたかわからない。フットボールで起きたすべての良いことも、妻と子供たちとはまったく比べ物にならない。

これは僕にとって、3度目の人生を変える瞬間となった。なぜなら、フットボールは生死をかけたものではないと、気付かされたからね。思うに僕は、人生の最初の23年間を、フットボールに捧げすぎたんだ。でも妻と出会い、長男が生まれると、もう一人でこれを続けることはなくなった。この家族が始まろうとした時、僕はシティに入団した。そこからすべてが動き出した。

特に、僕の2シーズン目にペップが来てからは、物事が大きく動き始めた。

Tom Flathers/Manchester City FC/Getty Images

ペップと僕は、似たメンタリティーを持っている。客観的に言って、彼の方がフットボールに対してより激しく向き合っているよね。彼は常に、途方もないストレスに晒されている。選手が感じる精神的な負担の倍くらいのストレスを、彼は抱えていると思う。なぜなら彼は勝利だけにこだわるわけではなく、パーフェクトなものを望んでいるからね。

ペップとの最初のミーティングで、彼は僕を席につかせて、こう言ったよ。「ケビン、よく聞いてくれ。君は世界のトップ5の選手に、簡単になれる。トップ5だ。しかも易々と」

これは衝撃的だった。でもペップが自信満々にそう言ってくれたから、僕のメンタリティーはすっかり変わった。ある種、天才的な発言だよね。だって、そのおかげで僕は彼が正しいことを証明しなければならないと感じたわけだから。彼をがっかりさせるようなことはできないとも。

多くの場合、フットボールはネガティブな考えと恐れが支配する。でもペップのチームでは、すべてが極めてポジティブになる。彼はほとんど到達不可能に思えるほど、実に高いハードルを設定する。彼が戦術を知り尽くしているのは事実だ。そこに議論の余地はない。ただし外部の人は、彼がパーフェクトに物事を達成するために、自分自身にプレッシャーをかけていることを知らない。

多くの場合、フットボールはネガティブな考えと恐れが支配する。でもペップのチームでは、すべてが極めてポジティブになる。

ケヴィン・デ・ブライネ

18/19シーズンは僕にとって簡単ではなかった。複数の負傷や、欠場せざるをえなかった試合は、僕のメンタルに極めて大きな困難をもたらした。スタンドから試合を観るのは、僕にとって拷問よりも嫌なものだ。耐えられないんだ。

そんな時、妻が僕のなかで何かがおかしくなっていると言ったよ。当時、僕らはすでに7年ほど一緒にいたけど、彼女は僕が泣いたところを見たことがなかった。葬式でさえ、僕は涙を見せない。でも、そのシーズン序盤のフラム戦で膝を痛めた時、靭帯を損傷してしまってね。医者は少しの間、足を保護する器具をつけるように言ったよ。これはいつだって最悪なんだ。人の手を借りなければ、下着を替えることさえできないんだから。しかもタイミングも最悪だった。妻が二人目の男の子を出産した次の日だったんだ。

僕が彼女に怪我のことを知らせようとFaceTimeをかけたとき、妻はちょうど病院から帰宅したところだった。

「赤ちゃんはどう? すべては順調かな?」と僕は言った。

「順調そのものよ。あなた、泣いているの?」と彼女は答えた。

僕の目に涙がうっすらと浮かんでいたのだろう。

「いや、嫌な知らせがあってね」と僕。「また膝をやってしまってさ。当分は器具をつけなければいけないから、3人の赤ん坊を君に見てもらわなければならなくなる」

その時、僕は文字通り、崩れ落ちて泣き始めたんだ。どうしようもなかった。その理由は、新しい息子が生まれた喜びによるものなのか、それともこの先に欠場しなければいけない試合なのか、あるいはその両方なのかわからなかった。でも僕はカメラを自分に向けてFaceTimeで話していて、ひとりで馬鹿みたいに泣きじゃくっていたんだ。

妻にはそれが信じられないようだった。

「あなたは私たちの結婚式でも泣かなかったじゃない!」と妻は言った。「息子たちが生まれた時でさえ、そうだったのよ! そのうちのひとりは、まさに昨日、生まれたばかりよ!」

これがすべてを物語っていると思う。本当にね。

結婚式、葬式、子供の誕生? なんてことはない。僕はピクリとも動かないよ。

でも僕からフットボールを取り上げるって? やめてくれよ。耐えられないんだから。

Sam Robles/The Players' Tribune

最終的にシティでのこのプロジェクトでは、勝利以上のものを求めることになった。然るべきプレースタイルと全体を通じる哲学。そのために僕らは毎朝起きて、極限まで仕事の詳細にこだわり、限界まで追い込んでいるわけだ。

シンプルなフットボールをプレーする。実はそれが世界でもっとも難しいことなんだ。でも好調時には? 自分の人生で一番の楽しみになる。

だから、僕らが不可能と思われた偉業を成し遂げるかどうかは別にして、このチームが繰り出す波は、フットボールを本当に愛する人なら、誰もが楽しんでくれていると思う。シティが最高のプレーをする時、その流れは……どんな言葉がふさわしいかな? そう、瞑想する時に得られるあの感覚さ。

ニルヴァーナ。

僕にとっては、まさしくニルヴァーナだ。

おそらく、僕はちょっと変わったタイプの人間だと思う。自分を表現するのは、フットボールを通して。でも、これが僕のストーリーだ。

それを話す機会を与えてくれて、ありがとう。

僕に語らせてくれて、ありがとう。

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