マドリード:マイ ストーリー

CYRIL MASSON/NIKE

To Read in English (Published Oct 2, 2017), please click here.

 鮮明に記憶している7歳のころの思い出がある。いまでもはっきりと目の前によみがえり、温もりに包まれる思い出は、そう、もちろん僕の家族のことだ。

 僕はちょうど本格的にサッカーを始めたばかりだった。それまでと言えば、友だちといっしょにマデイラの路上でボールを蹴っていただけ。路上と言っても、人通りの少ない通りのことじゃない。車も行き交う通りで、もちろんゴールも何もなく、車が来るたびにゲームを止めなければならなかった。それで満足していたし、毎日が楽しくて仕方なかった。でも父さんは、地元のCFアンドリーニャの用具係をしていたこともあって、そのユースチームに入るべきだとずっと言っていた。チームに入れば父さんが喜ぶことはわかっていた。だから、入団した。

 チームに参加した初日は、わからないルールだらけだったけれど、最高に楽しかった。僕は、きちんとした決まりごとと試合に勝ったときの達成感の虜になっていった。あごひげをはやし作業ズボンをはいた父さんも、試合のたびにサイドラインで楽しんでいた。でも、母さんや姉さんたちは、サッカーにはまったく無関心だった。

 だから毎晩、夕食の時間になると、父さんは家族みんなで試合を見に行こうと誘い続けた。まるで僕の最初の代理人のようだった。試合が終わって一緒に家に帰ると、「クリスティアーノが得点したぞ!」と父さんが叫ぶ。そんな光景を覚えている。

 母さんたちは「わあ、すごい」のひと言は残しても、

 大喜びするわけではなかった。

 次の試合後、家に戻った父さんが「クリスティアーノが2得点したぞ!」と報告しても、

 素っ気ない態度で「まあ、それはすてきね、クリス」と反応するだけだった。

 こんな状態で、僕に何ができるというのだろう? とにかく、僕は得点し続けた。

 ある晩、帰宅したお父さんが「クリスティアーノが3得点したぞ! いやあ、素晴らしかった!みんな見に来なくちゃだめだ!」と力説した。

 けれど相変わらず、試合前のサイドラインには、父さんの姿しかなかった。ところがある日、ウォームアップをしていて見えたのが、スタンドに座っている母さんと姉さんたちの姿だった。僕はこの光景を一生忘れないだろう。母さんたちは……どう言えばいいのかな、くつろいで楽しそうに見えた。体を寄せ合うようにして、拍手したり声を上げて応援したりするわけではないけれど、まるで僕が町のパレードか何かに参加しているかのように、ただ手を振ってくれていた。サッカー観戦が未経験なことは、誰が見ても明らかだった。でもとにかく、みんながそこにいてくれた。僕には、ただそれがうれしかった。

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 あの瞬間は、本当に温もりいっぱいの喜びに満たされていた。僕にとって大事な出来事だった。心の中で何かのスイッチが入る感じだった。とても誇らしくも感じた。あのころ、家にはじゅうぶんなお金がなかった。当時、マデイラでの生活は苦しく、僕は兄さんのおさがりや、いとこがくれた使い古したサッカーシューズを履いてプレーしていた。でも、小さなころは、お金のことなんて何も気にならない。そんなことよりも、ひとつのある感情を大切にするものだ。そしてあの日は、その感情をとても強く感じることができた。みんなから守られている、みんなから愛されていると。ポルトガル語では 〝menino querido da família. (みんなから愛されている少年)〟と言うんだ。

 僕は昔の思い出をたどり郷愁に浸っている。僕の人生でこの期間はとても短かったからね。サッカーはすべてを与えてくれたけれど、まだ幼かった僕を家族から引き離したのもサッカーだった。11歳のとき、スポルティング・リスボンのアカデミーに参加するため、島を離れた。人生でもっとも辛い時代だった。

 いま考えるとクレージーな話だよ。息子のクリスティアーノ・ジュニアは、これを書いている時点で7歳だ。4年後に荷物をまとめて彼をパリやロンドンに送り出すことを、親の立場で想像する。そんなことは、できそうにない。きっと、僕の両親だって息子を家から出すなんて有り得ないと感じていただろう。

 でも、それは夢を追うチャンスだった。だから両親も僕を送り出し、故郷を離れた。ほとんど毎日泣いてばかりいた。リスボンは同じポルトガルだったけど、まるで外国に引っ越したような感覚だった。言葉のアクセントが全く違うし、文化も違った。知っている人は誰もいなくて、とても孤独を感じていた。家族は経済的な余裕がなかったから、4カ月に一度ぐらいしか会いに来られなかった。とにかく家族が恋しくて、毎日がただただ辛かった。

 それでも、サッカーが僕を踏み止まらせた。フィールドでは、アカデミーの他の子どもたちにはできないことができる自負があった。初めて彼らのささやきを耳にしたときのことを覚えている。「いまのプレー見た? あの子はすごいぞ」。

 そんなささやきが絶えず、聞こえ始めた。コーチたちからも。でも、決まっていつも誰かがこう言った。「だけど、体が小さくて残念だね」。

 事実、僕はやせていて筋肉もなかった。だから、11歳の僕は決心をした。いろんな才能に恵まれていると感じていたが、他の誰よりも一生懸命に練習すると誓ったんだ。子どものようなプレーを止めよう。子どものようなふるまいもやめよう。世界で一番のサッカー選手になるためにトレーニングをしようと心に決めた。

 どこからこの感情が湧き出てきたのか、わからない。僕の内側にある、それは絶対に消えることのない飢えのようなものだった。負けたときの勝利への飢え。でも、勝っても、まだ飢えていた。得たものはほんの少しのパンくずでしかないような感情だ。こんな風にしか、僕には説明ができない。

 僕は夜、こっそり寄宿舎を抜け出して、トレーニングを始めた。どんどん体は大きくなり、どんどんスピードも付いてきた。フィールドに足を踏み入れると「だけど、体が小さくて残念だね」とささやいていたみんなが、唖然とした顔をして僕のプレーを見ていた。

 15歳のとき、トレーニング中のチームメートに向かって言ったことをはっきりと覚えている。「いつの日か、世界で一番になってやる」ってね。

 それを聞いたみんなは、笑っていた。それもそうだろう、僕はまだスポルティングのファーストチームにすら昇格していなかったのだから。でも、僕には信念があった。真剣だった。

 17歳でプロになったころ、母さんは緊張してしまって僕の試合をほとんどまともに観られなかった。当時はまだ、古いジョゼ・アルヴァラーデ・スタジアムでの試合は観に来るけれど、あまりにも気を張りつめてしまうから、ビッグマッチでは何度か気を失った。本当に、気絶してしまったのだ。母は、僕の試合用に医者から鎮痛剤の処方をしてもらっていたんだ。

 母さんに聞いてみようかな。「サッカーに全く興味がなかったときのことを覚えているかい?」って。

 僕の夢は、大きく膨らみ始めていた。代表チームでプレーをしたかったし、テレビでいつもプレミアリーグを観ていたので、マンチェスターでもプレーをしたかった。スピード感のある試合運びと、選手たちのプレーに酔いしれた観衆の大合唱に魅せられていた。会場を包むその雰囲気に、感動すら覚えていた。実際、マンチェスターの一員になったときは、それはもう本当に誇らしく感じたものだが、僕よりも父さんや母さんたちのほうがもっと強く誇りを感じていたと思う。

 マンチェスター時代、あのころの僕にとってトロフィーの獲得はとても感情が高ぶることだった。マンチェスターで最初に手にしたチャンピオンズリーグのトロフィーのことはよく覚えていて、とにかく圧倒的な感情がこみあげてきた。初めてのバロンドール受賞も同じだった。それでも、僕の夢はさらに膨らみ続けた。だって、それが夢ってものだろ? 僕はずっとマドリードに憧れていた。新しいチャレンジも欲していた。マドリードでトロフィーを勝ち取り、記録をかたっぱしから破り、クラブのレジェンドになりたかった。

 過去8年間、僕はマドリードで数々の偉業を達成してきたけれど、本音を明かすと、トロフィーを手にしたときの感情が、時が経つにつれて、それまでとは異なるものになってた。特に、この2年間。マドリードというクラブでは、すべてのタイトルを手にできなければ、失敗だとみなす人もいる。つまり、これこそが偉大なクラブに求められる宿命であり、それに応えることが僕の仕事なのだ。

 けれど、自分が父親になると、気持ちがすっかり変わってくる。これはうまく説明のできない感情なのだが、この気持ちこそ、僕にとってマドリードでの時間が特別な理由だ。僕はサッカー選手であり、それと同時に父親でもある。

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 一生忘れないであろう、息子との瞬間がある。

 この光景を思い出すとき、僕はいつも温もりに包まれる。

 それは、カーディフでのチャンピオンズリーグ決勝に勝利した後、フィールド上でのことだった。その夜、僕たちは歴史を作った。試合終了を告げる笛がピッチに響きわたったとき、僕は全世界に向けてメッセージを送った気分だった。その後、息子がフィールドに降りて来て、一緒に喜んでお祝いをしてくれたんだ……このとき、パチンと指が鳴った気がしたんだ。その瞬間、突然、すべての気持ちが変わったのさ。彼はマルセロの息子と一緒に走り回っていた。僕と息子はトロフィーを一緒に抱きかかえた。それから、手をつないでフィールドを歩いた。

 これは、父親になるまでわからなかった喜びだった。言葉では言い表せないほどの感情が一斉に湧き起こったのは、スタンドに座る母さんと姉さんたちの姿を見つけた、あのマデイラでの瞬間以来だった。

 ベルナベウでのセレモニーのとき、クリスティアーノ・ジュニアとマルセリトは大勢のファンを前にしてフィールドで遊んでいた。僕が彼らくらいの年齢のときに、路上で遊んでいたのとは全く違う光景だ。僕が路上で遊んでいたときとは状況が全然違うけど、あのときの僕と同じ気持ちを息子も感じてくれていたらいいな。息子も 〝Menino querido da família.(みんなから愛されている少年)〟でありますように。

 マドリードで400試合を戦ったいまでも、相変わらず勝利こそが僕の究極の野望だ。僕はそのために生まれてきたのだと思う。けれども、勝利の後に抱く感情は間違いなく変わった。これは僕の人生における新しい章なのだ。僕は新しいサッカーシューズに特別なメッセージを刻んでいた。かかとの部分には、紐を結んでトンネルへと向かう前に目にする文字がある。

 この言葉は、試合前の最後のリマインダー……、そして最後のモチベーション。こう書いてある。〝El sueño del niño.〟

 〝子どもの夢〟

 この意味、わかってもらえると思う。

 結局のところ、当然ながら僕の使命はこれまでと同じだ。これからもマドリードでどんどん記録を破り続けたい。ありったけのタイトルを勝ち取りたい。これはもう僕の宿命なのだから。

 でも、マドリードでの最も大切な記憶として、95歳の僕が孫たちにきっと話すだろう。チャンピオンとして息子と手をつなぎ歩いたあのピッチでの感情を。

 再び、息子と歩けますように。

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