人生の第二章

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 考えれば考えるほど、プロのベースボールプレーヤーとしての最後のスイングが日本での一振りになるかもしれないなんて、自分らしいと思う。

 しかも、何もかもが完璧だった――あの瞬間は一生忘れない。

 ヤクルトスワローズと対戦した2021年の日本シリーズ第5戦。妻と2人の息子はスタジアムで観戦していて、ダグアウトのすぐ近くの席にいた。だから、試合中も家族と話していたんだ。自分は先発ではなかったし、代打の出番がくるかどうかも定かではなかった。でも、ヤクルトが8回に3点を取って5-5の同点になった後、9回の先頭打者として監督が僕を呼んだ。

 マウンドにいたのはスコット・マクガフ。カウントはツーボール・ノーストライク。来た球はインサイドのファストボール。19年のキャリアで何百万回と見てきた球だった。そして――

 まさに会心の一撃だった。

 カキーン!

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 ベンチに戻ると、スタンドで叫ぶ妻の声が聞こえた。子供たちも大はしゃぎ。ダグアウトの端までチームメートとハイタッチを交わし終えると、家族はすぐそばのスタンドの手すりまで降りて来ていた。もう大興奮。飛び跳ね、叫びまくっていた。

 純粋で、色褪せることのない喜びだ。今でも目を閉じれば、あの時の光景がハッキリと浮かぶ。

 間違いなく言えるのは、素晴らしいキャリアを送れて幸運だということだ。2003年のドラフトでシアトル・マリナーズから指名され、2006年にメジャーデビューできた。そして、2008年にカルデナレス・デ・ララで優勝を目指していた時にボルチモア・オリオールズにトレードされた。ボルチモアでは魔法に包まれたような素晴らしい11年を過ごさせてもらった。そしてMLBのキャリアでの最後のチーム、アリゾナ・ダイヤモンドバックス時代には、先日他界した母のそばにいることができた。母は僕にとっての継父である夫のケニスと一緒に、フェニックスで暮らしていたんだ。他にも、素晴らしい体験をさせてもらったよ。

 でも、どの瞬間もオリックス時代を上回ることはない。

 チームのために大きな仕事ができたからという理由だけではない(アノ試合は11月の第4木曜日のサンクスギビングデーに行われたから、ベン・バーランダーが周りをけしかけて僕を“ミスター感謝祭”と呼ぼうとしていた!)。その後の2試合に勝利してシリーズ制覇を目指したからでもない(実際には勝てなかった)。特別な理由は、人生で一度きりの冒険を妻と子供たちと経験できたからで、間違いなく生涯に残る時間を過ごせたからだった。

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 プロとして歩み始めた頃には、まさかあんな経験をするなんて想像もしていなかった。

 始めた頃は、これで生活できればいいと思っていた。それしか考えていなかった。それ以上のことはオマケのように感じていた。まるで感謝祭の時のグレイビーソースのようにね。高校卒業後にドラフトで指名された当時、駆け出しの頃は何もかもが若かった。スワローズ戦でホームランを打つことになる約15年前、僕はアメリカにいて、アリゾナでのマリナーズ・スプリングトレーニングで走り回るただのティーンエイジャーだった。イチローの邪魔にならないようにね。

 これは2006年の話。ちょうどポジションがショートからセンターに変わった時期だった。キャンプ開始から数日の練習はキツかった。フライを捕球するのに苦しんだからでも、送球に苦しんだからでもない。外野手のキャプテンであるセンターとして、練習中ずっとその役割を担わないといけなかった。つまり、イチローに声掛けしないといけなかったんだ。

 できなかったよ。単純にできなかった。

 まるで声を出せない感じだった。だって、そこに誰がいるかわかっていたのだから。心の内では「お前より上手い選手がいるんだぞ。イチローだ! 最高の選手がそこにいるんだよ」と思っていた。

 だから最初の数分は、僕はただセンターにいるだけで、声掛けを先送りにして、イチローに全ての捕球を任せていた。

 でもイチローは、あるべき形を理解している。彼は全てわかっていて、何度か捕球の練習が続いた後で僕をグラウンドの脇へ連れて行った。

「あのな」、彼はそう言うと「捕れるなら声掛けしてくれよ」と続けた。

 その一言が聞けてどれだけ楽になったか。彼はそれからジョギングするようにライトに戻っていった。そしてもう一言だけ付け加えたんだ。

「お願いだから俺に向かって突進してくるなよ。俺にぶつかってくるなよ、OK?」

 僕は笑って、うなずいた。万事解決した瞬間だった。

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 プロ生活を始めたばかりの頃は、キャンプでの練習中にイチローのやり方を見て、すごくたくさんのことを学んだ。彼は、何事も目的意識を持って取り組んでいたようだった。そして、全てを正確にこなしていた。どんな動きであっても、自分のやるべきことに集中していて、フィールドに立っている毎分毎秒、常にレベルアップするためだけに取り組んでいた。

 彼がどうやってそこまでたどり着いたのか、その意図もわからなかったけれど、ハッキリと脳裏に刻まれた。

 そして日本にやって来て、オリックス・バファローズの練習に参加した瞬間、全てに納得がいった。

毎日が新たな冒険のようだった。何が待っているか想像もつかなかった

アダム・ジョーンズ

 年寄りの自分は、日本のチーム練習のレベルに対応する準備ができていなかった。アメリカではキャンプの時期にハードな練習をこなすけれど、シーズン開幕後は試合をこなす方を重視する。ところが日本では、毎日練習をする。どの練習も、一年で一番集中するキャンプの時期と同じようにこなす。

 ふざけるようなムードはない。とにかくレベルアップすることだけに集中している。投手は、7月になっても週に3、4回はフィールディングの練習をしている。内野手はシーズン終盤になってもゴロの捕球練習を何千回とこなす。ベースランニング、バントの練習も繰り返し行われる。あらゆる部分を完璧に近いところにまで持っていくことが重視されるんだ。

 2000年代序盤に目にしたイチローの練習は、日本野球の根幹に基づいているものだったんだ。

 日本にやって来て、オリックスでの練習に参加した時、改めて基礎の練習に取り組めて楽しかった。MLBで20年近くプレーしてきて、異なる国の野球のやり方を学べたのは本当に興味深かった。

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 海外でプレーすると決めた時、ウチの家族や親戚にとっても来日するチャンスだし、異なる文化を学ぶ良い機会になると考えた。旅行をして、色々な土地や景色を眺めて、様々な体験ができるとも考えた。最高のプランだった。誇らしい気持ちだったよ。

 そうこうしている間に新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた。世界中の人たちと同じように、自分のプランもゴミ箱行きになってしまった。

 妻と2人の子供達はマンションから出られなくなってしまって...何もかも僕たち家族4人で解決しないといけなかった。最初は大変だった。アメリカでは考えもしないような些細なこと、あって当然の物への対応が難しかった。ガソリンスタンドを見つけるのにも苦労したし、ベッドのサイズも自分には小さ過ぎた。看板や標識が何を意味しているのかもわからなかった。こういうことへの対応が大変だったんだ。最初の頃は、なんで日本に来ちゃったのかなと思ってしまった日も何日かあった。

 けれど、当時を思い返すと、生活のための準備や、隔離された生活などのおかげで、家族として大きく成長できたと思っている。なにしろ、自分たちだけで対応したのだからね。

 子供達は当時4歳と6歳で、アメリカでは友人、妻の両親やベビーシッターに助けてもらっていた。それが日本に来てからなくなったけど、結果的に本当に良かったと思う。

 2020年のキャンプ中にパンデミックが起こって、リーグのコミッショナーがシーズン開幕を6週間延期すると発表した。その期間のおかげで家族も生活に慣れた。あの年の4月の気候はとにかく素晴らしかった。朝は涼しくて、日中は24度くらい。僕たちは車に乗り込んで探検に出かけた。神戸と大阪あたりをドライブしたり、京都の嵐山モンキーパークで登山をしたり。

 奈良に鹿を見に行った日もあった。鹿にあげるクッキーも買えるのだけれど、その時は普段のように観光客でごったがえしてはいなかったから、僕たちの手にクッキーがあるとわかった瞬間、鹿たちがアグレッシブになったよ。妻のお尻を噛んだ鹿もいたくらいだった!

 毎日が新たな冒険のようだった。何が待っているか想像もつかなかった。

家族全員にとって、日本での生活はプラスになった。人生で大切な時間を過ごせた。これ以上の感謝はない

アダム・ジョーンズ

 コロナの影響で海外からの観光客がいなくて、街は閑散としていた。そのおかげで自分たちが独り占めしているような感覚だった。混雑することなく散策できたし、公園や美術館、それにレストランへもすんなり行けた(僕のオススメ店:BBQ好きなら叙々苑が最強。ラーメンなら賀正軒が最高。本当に美味しくて、アメリカに持って帰りたいくらいだ)。

 できるだけ多くのことを吸収して、学ぼうとした。僕の通訳は藤田義隆さんという大ベテラン。みんな彼を“フジ”と呼んでいる。彼は通訳を39年もやっていて、アメリカから来る選手を担当している。本当に素晴らしい人で、面白い。出会った頃から、僕はフジの後をついて回った。いつも彼を追いかけて、日本の文化や伝統、歴史、オリックスの歴史、彼の人生、とにかく次から次へと何でも聞いた。フジの存在は僕にとって本当に大きかった。僕たちは親友になれた。今でも彼とずっと連絡を取り合っている。彼からたくさんのことを教わったんだ。

 数ヶ月が経って生活にも慣れてきた頃、看板に書かれている言葉の意味がわかるようになったんだ! それに、相手が何と言ったのかもわかるようになった。ある時、幸運にもレジェンドの王貞治氏にお会いする機会があって、日本語で「はじめまして!」の挨拶と自己紹介をできたことが嬉しかった。王さんに対する尊敬の念を示せたと思う。

 気がつけば、レストランでも日本語で注文できるようになっていた。

 こんな風に、日本語でコミュニケーションが取れるようになるなんて、今までで、最高の出来事だったよ。

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 自分も妻も、間違いなく最高の時間を堪能できた。それ以上に子供達は日本での生活を心から楽しんでいた。それこそが、自分にとってベストなことだった。

 子供達は日本で全く異なる経験ができた。それに、他所では味わえない文化を学べた。彼らは完全に溶け込んでいて、どの瞬間も心から楽しんでいた。

 今回の経験で、我が家の子供達は知識を蓄え、豊かな人間性を養えたことで、幼い頃に素晴らしい体験ができた。個人的な意見だけれど、何かを買い与えるよりもその方が良いと思っている。子供達は日本でたくさんの友達に恵まれた。同じ年齢の子供達から学び、彼らのバックグラウンドをよく理解することができた。食卓を囲んだりもした。父親として、こんなに嬉しいことはない。

 自分が幼かった頃の友達は、みんな近所に住んでいた。それが自分の住む世界の全てだった。みんなで近くの公園に行って遊ぶだけだった。

 もっと子供達の話が聞きたいのかい?  ウチの子達は富士山にも登ったんだ。しかも彼らはアメリカ人選手のことよりも日本人選手のことの方が詳しい。リトルリーグでの試合では、日本の打者の真似をする。チームのコーチが僕に近づいてきて「スイング前に足を蹴り出す動作は何なんだ? どこであんな癖を覚えたんだ?」と聞いてくる。

Billie Weiss/Boston Red Sox /Getty Images

 家族全員にとって、日本での生活はプラスになった。

 人生で大切な時間を過ごせた。これ以上の感謝はない。

 日本の人たち、ファンの皆さんには、僕たちが皆さんから受けた親切心やサポート、愛情にとても感謝していることを知ってもらいたい。この恩は決して忘れない。

 早くまた日本に行きたいね。

これまで野球が僕に与えてくれたことは数知れない。多くの場所に導いてくれて、想像以上の体験をさせてもらった

アダム・ジョーンズ

 さて、それがいつになるかだけれど...僕は現役を続けたい。本当にそうしたいんだ。でも、仮にこれで終わりだとして、ヤクルト戦での一撃が最後の一振りになるのなら...それはそれで嬉しい。これまで野球が僕に与えてくれたことは数知れない。多くの場所に導いてくれて、想像以上の体験をさせてもらった。

 日本シリーズの重要な場面でホームランをかっとばせたのは、自分のような選手にとっては完璧な幕引きだろう。

 本当に幸運だと思う。毎日全力を出し尽くしてきた。本当に素晴らしい時間だった。

 みんなに感謝の気持ちを伝えたい。そして、みんなの幸せを願っているよ!

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