アンダードッグ・ストーリーなんかじゃない | カイル・ラウリー

アンダードッグ・ストーリーなんかじゃない

To read in English (Published Oct 21, 2019), please click here.

 最近は、あのときに感じたことを説明してほしいと何度も聞かれる。

 初優勝したときはどんな気分でしたか?

 簡単な質問のように思える。何しろこれまでの人生でずっと、優勝するために努力してきたようなものだから。ただ、あの感情を簡潔に語ることができるのか、自分でもわからない。

 バスケットボールに多くの時間と情熱を注ぎこめばこむほど、チャンピオンになる瞬間を想像するだけでたくさんの感情が湧いてくるものだ。この気持ちがわかるだろうか。頂点に近づくほど、目の前の優勝を掴み損ねるたびに、心の痛みは大きくなった。

 僕は高校では一度も優勝したことがなかった。ジュニア(日本の高校2年)の年とシニア(同3年)の年には、カトリックリーグの決勝で敗れた。ビラノバ大学の1年のときはトーナメントでノースカロライナ大に、2年のときはフロリダ大に負けた。どっちのチームも、その後勝ち進み、優勝した。

  NBAに来てからは、そうだな、こう説明するのがいいかもしれない。もし10年前に誰かに「僕がいつの日かトロント・ラプターズのメンバーとしてNBAチャンピオンになるんだ」と話したら、どこからつっこめばいいのかわからないだろうね。

 いまもまだ、優勝して実際にどんな気分になったかを説明できないのは、まだ自分のなかでその事実を現実に感じようとしている段階だからかもしれない。まだ、その途中なんだ。

 それに、その瞬間のこと──どう感じたか、どんな意味があるか──は言葉にするのが難しいけれど、それが僕たちのものだということはわかっている。僕や、僕の家族、チームメイト、コーチたち、そしてトロントの町のものだ。それが大事だ。

 それに関連して、もうひとつ、時々聞かれる質問がある。

 ディフェンディング・チャンピオンとしてじゅうぶんなリスペクトをされていると思いますか?

 いや、まったく。

 それが気にならないのか?

 いや、あまりならない。

ディフェンディング・チャンピオンとしてじゅうぶんなリスペクトをされていると思いますか? いや、まったく

カイル・ラウリー

 これはいまに始まったことじゃない。トロントがじゅうぶんなリスペクトをされることはない。リーグで唯一、カナダにあるフランチャイズだからね。僕がここに来て以来、ずっとそうだ。

 僕にとって、優勝にたどり着くまでは、長く、険しい道のりだった。そして、チームや組織にとっても長く、厳しい道のりだった。それでも、僕らはたどり着いた。

 好き勝手に言い、好き勝手に考えればいい。でも、事実は変わらない。僕らはリングセレモニーをする。彼らに残されたのは、旧態依然な考えだけだ。

 どうでもいい。僕らはチャンピオンなんだ。

Jesse D. Garrabrant/NBAE/Getty Images

 世間からさまざまなことを言われるが、僕はアンダードッグと言われることがあまり好きじゃない。

 まるで、運がいいからという理由だけで、いまここにいるように聞こえる。

 いや、間違いなく運もあるが、それはNBAにいるどの選手にも言えることだ。実際、子どものころから夢みていたことを実現したどの人にも言えることだ。でもNBAで生き残ること、選手として成長してここまでやってきたことは、運なんかじゃない。それは全部プロセスだ。

 本当のアンダードッグ・ストーリーを聞きたいかい? アメリカ中でもっとも危険なところから来た若者が、ビラノバ大で4年分の奨学金を得た話だ。

 それは、ただのアンダードッグ・ストーリーではない。僕の出身と境遇から考えれば、それは奇跡といっても過言ではない。

 どれだけ大きな舞台や場面だったとしても、バスケットボールはファンタジーだ。どんな結果になろうとも、どんなプレーをしようとも、バスケットボールをしているときにプレッシャーを実感することはない。

 現実で起きていることこそがプレッシャーだからだ。

 プレッシャーとは、他の移動手段を持たずに、雪が降りしきるなか何マイルも苦労して歩くことだ。プレッシャーとは、WICプログラム(女性・乳児・児童栄養補助プログラム)の支援を受けているいとこのために、列に並んで待ち、ミルクと、運がよければほんの少しのジュースをもらうこと。プレッシャーとは、子どもが死んだり、刑務所に行くことにならないように、母が2つの仕事をしながら、親としての時間も作ろうとすることだ。

 それが現実だ。

 バスケットはどうだろうか? バスケットボールはいつでも聖域だった。どれだけ激しい試合だったとしても。

 育った環境が、僕のプレーを作った。ノース・フィリーの22番街とリーハイの角にあるコニー・マックでストリートボールをしたことが、僕にとっての教育だった。兄のロニーは、僕より5歳上だったけれど、いつでも僕を同じチームに入れてくれた。コートの中で最年少で、まわりの選手がみんな自分より大きくて強いとき、やるべきことはシンプルだった。ハッスルする。チャージングを取る。ボールに飛び込む。ピックをかけて、シュートは打たない(でも、打ったときは必ず決める)。

 そして何よりタフであること。これに関しては選択の余地はなかった。幸いにも、タフであることは僕にとって一番簡単だった。それだけは、努力したり、磨いたりする必要はなかった。僕のタフさは、僕の祖母から受け継いだ。

 ばあちゃんは今年のはじめに亡くなった。それは僕にとって本当に辛いことだった。大好きだったんだ。僕とばあちゃんはとてもよく似ていて、お互いのことをとにかく理解しあっていた。厳しいところもあったけれど、僕ら兄弟はみんな、ばあちゃんがみんなを大事に思っていたことをわかっていた。彼女がやることは全て他人のためだった。

 それでも、誰に対しても干渉しすぎることはなかった。

 小学生のころ喧嘩をしたときのことが忘れられない。喧嘩を止められ、校長室に連れていかれた。このとき僕が気になっていたことはひとつだけだった。

「まいったな。ばあちゃんにケツを叩かれるぞ!」

バスケットはどうだろうか? バスケットボールはいつでも聖域だった。どれだけ激しい試合だとしても

カイル・ラウリー

 校長室で、先生から「カイル、これは大きな問題ですよ。停学になりますよ」と言われた。僕はただただ懇願していた。「わかりました。どんな処分になってもいいから、ばあちゃんにだけは言わないでください! お願い、ばあちゃんにだけは電話しないでください!」

 その日、学校から家に帰るまでの道のりは、まるで葬儀の行進のようだった。母はいつも寛大だったけれど、祖母はしつけに厳しかった。だから、僕は怒られるとわかっていた。

 家に着くと、ばあちゃんはそこにいて、ただ、待っていたんだ。身震いがした。そのとき言われた言葉が忘れられない。

「それで、勝ったの?」

 かまをかけようとして言ったのか、わからなかった。ただ、頷いた。

「そう」

 ばあちゃんはそう言うと、ほんの少しだけ笑顔を見せた。「それならよかった」

 それだけだった。ミルクをこぼしただけで、ひどく叱られたこともあった。でも、このときは見逃してくれた。

 長い間、僕はその理由がわからなかった。でも自分が父親になって、少し理解できるようになった。それは僕にタフさとは何かを教える、ばあちゃん流のやり方だったんだ。完璧な方法でもないし、子育ての本にも書かれていない。でも、よりいい人間になる育て方と愛情の示し方は人それぞれだ。

 喧嘩はしちゃいけないよ。

 でも、もし喧嘩をするなら? 勝つんだ。

 僕は自分が生まれ育った環境を誇りに思っている。ただ、荒れた環境では人を信頼することは難しいということだ。

 信頼とは、絶望的な状況にある多くの人にとっては手に入れる余裕すらないような贅沢だ。うまくいかないと感じたときには簡単に孤立してしまう。家を離れて、特にNBAに入ったとき、勝てる“組織”の一員として必要とされるための信頼を築くのが難しかった。

 その理由のひとつとして、メンフィスにドラフト指名されてすぐ、バスケットボールのビジネスとしての側面を学んだことが挙げられる。ルーキーとしてチームに入った僕は、自分こそが将来のポイントガードだと信じていた。ところが、それからちょうど1年後、チームがマイク・コンリーを指名したときのドラフト会議に参加した。

 正直言って、あれはすばらしい指名だった。マイクはいまでもリーグでトップクラスだ。でも、もちろんそのときにはそんなふうには考えていなかった。まったく予想もしていなかったんだ。チームがポイントガードの選手を指名するなんて。その指名を目の当たりにして、NBAでは本当に何の保証もないのだという現実を突きつけられた。

 ヒューストンにトレードになったときには、自分ができることをみんなに証明する気満々だった。出場時間とリスペクトを得るために、それまで以上に一生懸命練習した。ケビン・マクヘイルがヘッドコーチに就任したのは、僕がキャリアハイのシーズンを送った直後のことだった。シーズンの最初から、僕は間違ったメンタリティでやっていた。前のシーズンに活躍したから、自分が中心選手だと思い込んでいた。もっと良い待遇を受けるに値すると思っていた。ところがコーチは、その反対のことをしてきた。僕に対して厳しかったんだ。本当に厳しかった。当時は、コーチが何をしようとしていたのかがわからなかった。コーチは僕のことをタフでいい選手だと認めていたし、もっと頑張ればさらに成長するだろうと見込んでいた。だけど僕にはその思いがわからなかったんだ。

僕は自分が生まれ育った環境を誇りに思っている。ただ、荒れた環境では人を信頼することは難しいということだ

カイル・ラウリー

 コーチがなぜ僕に厳しいのか? その答えは、僕をもっと良い選手にするためだという単純なことがわかっていなかった。

 トロントにトレードになったときは、まるで追放されたような気分だった。トロントのことは何も知らなかった。あのころは知りたいとも思っていなかった。これは、次にどこか別のところでプレーする機会が巡ってくるまでの小休憩だと思っていた。

 でも、トロントに到着してほどなくして、自分がまったく間違っていたことがわかった。この場所は単なる休憩場所なんかじゃなかった。過小評価されたファンベースがある、すばらしい町だった。この町を盛り上げるために必要なのは勝者だけだった。

 トロントに来て最初のころ、僕らはずっと同じチームの仲間でいられる保証がまったくないとわかっていた。僕らの多くはほかのチームから見捨てられた選手たちだった。だから同じ想いになるのに時間はかからなかった。お互いのためにプレーをした。そして、僕はデマーに会った。彼は僕の親友の1人となり、オールスターにも選ばれ、僕らは何かを築き始めていた。信頼関係だ。

 NBAファイナルへ進み、優勝トロフィーを掲げるために、多くの犠牲を払わなければならなかった。そこに至るまでの道を築いてくれた人たちを失った。ケースを手放し、デマーとJVがトレードになった。どれもビジネスとしての判断だとわかっていたけれど、ものすごく気持ちがこたえた。

 それから僕らは、後にチームに加わった選手たちでロースターを組み立てた。そうだね、少しラッキーなところもあった。タイミングのいいプレーや、ボールのバウンド──フィリー相手に、リムの上で3回か4回跳ねたのとか──が僕らに味方してくれたことあった。

 勝利のために、僕らはやるべきことを、やるべきときにやっていた。

 そしてすべてのこと──努力したこと、楽しかったこと、フラストレーション──を乗り越えた後に、大事なことはひとつだけだった。僕らはチャンピオンになったということだ。

Vaughn Ridley/Getty Images

 ひとつ、確実にわかっていることは、1回優勝しただけでは満足できないということだ。まだ旅が終わったようには感じない。

 むしろ、優勝したことでさらにやる気になっている。これはもう、頭のなかで思い描いていることでも、夢でもなくなったんだ。そこに到達するまでに何が必要かわかったし、到達したらどんな気分になるかもわかった。そして、もう一度あの感情を味わうために、できることは何でもやりたいと思うようになることも。それが今シーズンの僕を駆り立てている。パレードが終わった1週間後、朝早く起きて、ジムに戻ったのはそのためだ。

 リングナイトは楽しみだ。それは間違いない。でも、掲げられた優勝バナーを長く見上げるつもりはない。すべての集中力は、もう一度優勝することに向けられる。優勝バナーはなくなることはないんだ。ずっと、そこにある。

大事なことはひとつだけだった。僕らはチャンピオンになったということだ

カイル・ラウリー

 先月、僕はラリー・オブライエン・トロフィーを家に持ち帰った。僕の2人の息子はトロフィーで遊んでいた。次男のカムはトロフィーのまわりを走ったり、跳んだりして、指紋をベタベタとつけていた。長男のカーターは、あっけにとられてトロフィーをずっと見ていた。まるで、「なんで、これがいま、ここにあるんだろう?」と言うかのように。

 いつの日か、彼がもう少し大きくなったら、どうやってトロフィーがここに来たかを話すつもりだ。長い話になる。でも、すばらしい物語だ。そして、どんなことがあっても、この事実だけは絶対に変わらない。

 トロント・ラプターズはNBAチャンピオンだ。

 カイル・ラウリーはNBAチャンピオンだ。

 それは、永遠に変わらない。

FEATURED STORIES