わたしが断食する理由

CHARLIE HYAMS

To Read in English(Published May 20, 2020),click here.

 最初の4日が一番辛い。本当にね。

 毎年、わたしは断食しながらトレーニングをして1ヶ月を過ごす。知っているかもしれないけど、世界中のイスラム教徒はラマダンを守っているの。ラマダンの1ヶ月間、イスラム教徒は日の出から日没まで食べたり、飲んだりしない。何も食べずにボクシングトレーニングをするのはよくないとされているみたいね。でも、1ヶ月間トレーニングをサボると身体のコンディションを戻すのに大体6ヶ月かかるから、わたしはラマダンの間も休めない。それで、その期間も1日2回トレーニングをしているというわけ。

 みんな、そんなことできるわけないって思うみたいね。「水も飲まないの?」ってすごく驚かれる。

 あと、みんなは断食が長ければ長いほど辛いだろうとも思っているよね。実際は逆で、最初の頃はうまくバランスが取れないからつらいの。断食を始めて4、5日めの日没後は、食べることしか考えられなくなって、適切に水分をとることを忘れてしまう。そして翌朝、トレーニングに必要なだけの水分補給がないまま起きることになる。でも、時がたてばだんだん慣れてくるわ。どのスポーツでもそうだよね。

 朝食をとるために日の出の30分前に起きる人が多いけれど、わたしは眠ることを優先しているの。アスリートにとって睡眠はとても大切だからね。起きたあとはお祈りをして(お祈りは1日に5回よ)、コーチでもある夫のリチャードと軽いトレーニングをする。

「水も飲まないの?」ってすごく驚かれる

ラムラ・アリ

 食べないと重いものを持ち上げる力が出ないから、断食をしながらの筋トレは本当にきつい。でも、有酸素運動はできるわ。例えばミット打ちとかね。リチャードもわたしと同じイスラム教徒で本当によかったと思う。――もし彼がわたしの目の前で食べたり飲んだりしていたら、きっと耐えられないもの! わたしたちは、日没後最初の食事の1時間前に、一番きついトレーニングをする。こうすると力を使いきることができるし、それから食事をすると筋肉が栄養をすぐに吸収するの。日が沈んでいるうちに、とれる限りのカロリーを摂取しておかないとね。そして、数日のオフは何もしないでエネルギーを蓄えておく、というのがわたしのラマダン中の日常よ。

 おもしろいよね。朝から断食をしていると、日没後の食事では何でも食べられる。もし食べ物が焦げていたとしても、「めちゃくちゃおいしい! 普通だったらありえないけどね」って思う。

 ラマダンでよくないのは、普段通りには激しいトレーニングをできないことかな。リチャードとわたしはミット打ちのために下の駐車場に降りて12ラウンドするつもりだったのに、ふらついて6ラウンドしかできないということがあったわ。食べ物や水分不足のせいで、トレーニングを続けられないの。

Charlie Hyams

 この記事を読んで、どうしてわたしがこんなことをしているのだろうと思う人がいるかもしれないね。その理由は少なくとも4つある。

 まず説明したいのは、わたしにとってラマダンがどんな意味をもっているのか。

1.ラマダンはみんなを一つにする

 ラマダンは、一年で唯一家族が集まる時なの。そこにはリチャードという、何よりもわたしの人生をかたちづくってきた人がいる。こう言うと安っぽく聞こえるよね、わかってる。「彼女がそんなことを言うなんて信じられない! 」という人もいるかもしれない。でも、本当にリチャードといると全て上手くいくんだ。

 いつもならロンドンらへんから家族が集まってきて、バーミンガムに住んでいる兄弟も車でやってくる。でも、今年は新型コロナのせいで、いつもとは違う。――父さんも母さんも重症化リスクが高いから、全然会うことができない。でも、コロナ禍でなかったら、ラマダン期間中の日没後の食事を一緒に食べて、日々感謝していることを話していたと思うわ。わたしたち家族はお互いにとても感謝しあっているし、わたしも兄弟姉妹も、愛に溢れた家庭で育ったと感じているの。父さんは、ソマリアでは教師だったけれど、ロンドンに来てからは家族を養うために建築現場で働いていた。母さんはわたしたちを何不自由なく育て、いい教育を与え続けてくれた。いつもなら週に1回母さんに会っていたんだけど、その度に母さんは「じゃあね、気をつけて」と言って、「そうそう、痩せすぎてはダメよ!」と付け加えるの。

 あはは! 母さんはボクシングが体重別階級のあるスポーツだということを知らないからね。リチャードにさえ、「こんなに痩せてる奥さんを好きになれる?」なんて言うかもしれない。

 わたしがソマリアからロンドンまでの旅について知ることになったきっかけは、母さんだった。旅をしたのは90年代初め、わたしが1歳の頃だったみたい。わたしが生まれたのはソマリアの内戦が始まった頃。その時ソマリアでは誰も出生証明書を残さなかったから、わたしは自分の正確な年齢を知らないの。リチャードが母さんの隣に座って、何が起きたか聞くまで、母さんはその旅について絶対に話そうとしなかった。少しだけなら聞いたことはあったけれど、それがどんなに恐ろしくて苦しく、希望のないものであったかは知らなかったわ。

 母さんは、ソマリアはかつて観光スポットだったけれど、戦争が始まってから安全なところではなくなったとよく言っていた。父さんと母さんは、兄の一人が爆弾で命を落とした時、ソマリアはわたしたちが住むには危険すぎると判断した。それで、8日間かけてケニアにボートで渡ったの。7人――私、両親、兄弟姉妹――と他の親族でね。母さんが、わたしはいつも泣いていたと言っていたわ。今も、暗い海の上を進む木のボートでわたしが泣いている光景が想像できる。200人分のスペースしかない船に500人くらいがいて、生きるために砂糖をなめていたそうよ。

わたしが生まれたのはソマリアの内戦が始まった頃。その時ソマリアでは誰も出生証明書を残さなかったから、わたしは自分の正確な年齢を知らないの

ラムラ・アリ

 ケニアに渡ってからというもの、父さんと母さんはイギリスに行くために1年間お金をためていたの。それがわたしたちを救ってくれた。母さんがこの話をしてくれた時、ふたりがわたしたちのためにどれだけのことをしてくれたのか、はっきりわかったわ。父さんはわたしたちのためにたくさんのことを犠牲にしてきた。

 母さんもね……母さんはファイターで、わたしなんかよりもずっとすごいんだ。

2.ラマダンは信仰を表す方法

 幼い頃からラマダンを守ってきたわ。自分の信仰を表すのはかんたんなことじゃなかったから、わたしにとってラマダンはとても大切だった。

 イギリスにきてからは、イーストロンドンに落ち着いた。あそこはたくさんの文化と民族性を持つ地域だったわ。最高だった。でも、一度だけ、本当に嫌なことがあった。あれはわたしが11歳の時――これはリチャードにしか話していないんだけど(母さんにも言ってないわ)――コーランの学校から、ヒジャブ(イスラム教徒の女性が頭や身体を覆う布)をつけて帰っていたの。そうしたらいきなり、近所の不良たちが自転車でこっちにきた。わたしは他のソマリア出身の人ほど肌が黒くなかったから、パキスタン人だと思ったんでしょうね。あいつらはわたしのヒジャブをはがして「よお、パキ」って罵ってきた。

 本当に傷ついたわ。だから、家に帰ってから母さんに、もうコーランの学校に行きたくないって言ったの。何が起きたかは言いたくなかったから、ただ「母さん、わたしはもう大人よ」って。

 母さんは「どういう意味?」って聞き返してきた。

 だから、こう言ったの。「わたしは大人だから、もうあそこには行かない。みんな幼稚すぎるわ」

 でまかせだった。もう二度とヒジャブを着たくなかったの。それから、イード(イスラム教の祝日)みたいな宗教的な日にモスクに行く時をのぞいて、ヒジャブを身につけることはしなくなったわ。今でもあの時のことを思い出すと怖くなる。あの時は自分を守ることができなかったけど、今だったらあいつらを叩きのめして逮捕されちゃうかもしれないね。二度とあんな思いはしたくない。

本当に傷ついたわ。だから、家に帰ってから母さんに、もうコーランの学校に行きたくないって言ったの

ラムラ・アリ

 それ以来、人種差別を受けることはなかった。ヒジャブを身につけている母さんや姉妹たちも何も言われることはなかった。これがロンドンの素晴らしいところだよね。寛容で、多種多様な文化がある。それでもわたしにとって、ここでソマリア人として育つことは大変だった。

 特に、学校で起こったことのせいでね。

 8歳くらいの時、わたしはおとなしくて気の弱い子供だったわ。わたしが通っていた小学校は白人が多い地域にあった。わたしは天然パーマの黒人で、しかもかなり太っていたから、その学校になじんでいるとは思えなかったの。そして、自分のことが本当に好きじゃなかった。クラスの他の子みたいに、ほっそりした体でストレートヘアーの女の子になりたかったわ。――テレビのコマーシャルに出てくるみたいな女の子に。彼女たちはみんなストレートヘアーで肌が白く、やせていた。今はグラマーな体型の女性のためのスポーツウェアもあるし、(天然パーマの)わたしがシャンプーの大手企業のアンバサダーになる時代。でも、昔はわたしみたいな髪の子がそんなアンバサダーになるなんてありえなかった。そうね、うん……孤独だったわ。家では愛されていたけれど、家の外ではいつもさみしかった。

 ソマリア人ではないと言い張っていた時もあった。学校で出身を聞かれても、適当にでまかせを言っていたわ。

「いろんな人種が混ざっているの」ってごまかすと、

「どんな?」って聞かれるんだよね。

 前についた嘘を覚えていなかったから、毎回話を作っていた。

でまかせだった。もう二度とヒジャブを着たくなかったの

ラムラ・アリ

 ソマリア人である、というのはあまりいい意味ではなかったわ。何を言いたいか、わかるよね? 例えば、わたしたちは一番くさい人種とされていた。わたしたちからは家庭料理のにおいがする。服がオイルとスパイスと粉に浸かっていたみたいにね。だから、母さんが料理をしている時は、必ずわたしの部屋の扉を閉めていたわ。あと、肌が黒いことでもバカにされた。周りの子供達が意地悪なことを言ってくることはたくさんあった。

 もう一つの問題はランチ。わたしは母さんが作ってくれたご飯とお肉が入ったお弁当を持って行っていたけれど、みんなはポテトチップスや可愛くて小さなサンドイッチを持ってきていたわ。でも、わたしのお弁当はにおいがきつかったから、みんなの目が痛かった。「なんでわたしだけご飯とお肉なの? わたしもポテトチップスやサンドイッチがいい」って思っていたっけ。

 そう、これは本当に大きなカルチャーショックだったの。でも、今はソマリア人であることに誇りを持っている。

 あと、母さんへ。わたしは母さんの作る料理が大好き。いつも大好きだった。

3.ラマダンは個性を作る

 これはそんなに宗教的なことじゃないかも。ボクサーであるわたしにとって、断食は、気持ちをしっかり持てばなんでもできるっていうことを思い出させてくれる。例えば、腹筋をしていて痛くなってきた時、できるって自分に言い聞かせると、続けられる。全部気持ち次第なんだよね。明日は二部練習をするって思えば、その通りにできる。気持ちの準備がしっかりできているからね。

 ボクサーだったら、精神的に強くならなくちゃいけない。打ちのめされて、もうやめたくなる時がきっと来る。でも、やめることはできない。この世界に飛び込むと決めたのは自分だから。

 今でも覚えているわ。家の近くのボクシングジムにふらっと入った日のことを、そして汗だくのおじさんたちがジャブを打ち合っていた光景を。ウーッ、ウーッてうなっていたっけ。それからボクササイズをやってみて、わあ!これ大好き!って思った。やり続けたいと思ったわ、そんなに上手ではなかったけどね。あの頃は、女性のボクシングは全然本格的じゃなかった。当時の私のコーチさえも、レッスン代さえもらえれば、女性のボクシングなんてどうでもいいと思っていたわ。だから、ほとんどオンラインで見つけた動画から研究して、自分で練習した。

 ボクシングがうまくなるのに数年がかかった。何かを掴めたと感じたのは、2012年ロンドンオリンピックに参加した時だった。リングの女の子たちを見て、わあ、すごい……こんなに女性がボクシングをしているなんて!と思ったわ。

 その時にこうも思った。わたしにもできるって。

 母さんはわたしがボクシングに夢中になるのを喜ばなかった。わたしたち家族は危険なところから逃げてきたのに、なんでまた危険なところに戻るの?っていう感じだった。アフリカ自体が国として安定していないから、多くのアフリカ人の両親は医者や弁護士、エンジニアみたいな安定した仕事に子供をつかせたがる。わたしが法学部に進んだのもそれと同じ理由。――母さんを喜ばせるため。でも、全然楽しくなかった。

Charlie Hyams

 わたしは長い間ボクシングをやっていることを母さんに隠していた。ジムに行ってくると言っていたの、嘘ではないんだけどね……でもボクシングもしていたわ。母さんは勘が鋭い方ではなかったから、兄弟の1人が「わたしがテレビのボクシングの新番組で戦っているのを見た」と母さんに話すまで気がつかなかった。母さんは家族会議を開いたわ。家族がリビングに集まって、「ラムラ、ボクシングはやめるべきだよ。危なすぎるし、学業の妨げになる」って言ってきた。

 そして、わたしはボクシングをやめた。とても悲しかったわ。ボクシングへの愛が冷めた時にやめるつもりだと言っていたんだけど、わたしはまだボクシングを愛していた。わかりやすく言うと……ボクシングは悪い男と同じで、いったん別れる、でも良くないと知りながらも彼のところに戻ってしまう。今回は多分良くなっていると期待しながらね。こういう感じ、わかるかな?

 6ヶ月後、ボクシングをまた始めた。その時サウスロンドンのボクシングジムでリチャードに出会ったの。彼はボクシングの素晴らしさに加えて、わたしがこのコミュニティからどんなに支援されているかを母さんに見せた。それが母さんが変わるきっかけだったと思う。

 母さんは、今となってはわたしの一番のファン。まだテレビでしかわたしの試合を見たことがないけどね。一番下の弟を除いて、家族の誰もわたしの試合に来てくれたことはなかったわ。試合のたびに、両親や兄弟姉妹と一緒にいる選手を見る……そしてそんな時、わたしは観客席を見て、誰もいないことに気づく。

 でも、もし東京オリンピックの代表に決まったら、母さんは東京に来て試合を見ることを約束してくれた。わたしにとってこれ以上のことはないの。

4.ラマダンは思いやりを広める

 断食をする前提として、「つらい気持ちを抱えている人が、普段どのように感じているかを理解する」ということがあるわ。

 貧しかったり、何も持っていない人でも断食をするのはとてもすごいことだよね。それがラマダン。世界中の人々を巻き込んで、1ヶ月間結びつけることができる。言いたいことが伝わっているといいな。

Charlie Hyams

 わたし自身が難民だから、他の人がどんな苦しみを経験しているか、理解することができるの。本当に問題なのは、新型コロナのせいで、慈善団体やNGOが今まで受けていたような支援を受けられていないことだわ。わたし自身もユニセフの親善大使の一人で、慈善団体やNGOは寄付金にかなり頼っているのもわかっている。確かに、今航空業界や大企業はとても大きな打撃を受けているということはわかっている。けれど、わたしは難民キャンプに行ったことが何度かある――直近では12月にジョーダンへ行ったの――そして、その難民が今までと同じような支援を受けられないかもしれないと思うととても辛い。

 結局、難民も私たちと同じ人間なの。他の国に行きたいから行くんじゃない。自身や家族の生活を少しでも良くするためにそうしているだけ。彼らのほとんどはただ生き延びたい、それだけなのよ。

 難民危機みたいな問題は、貧困国出身の人が成し遂げたことを目立たなくさせてしまうわ。特に女性についてはね。ソマリア系アメリカ人で世界的ファッションモデルのハリマ・アデンは、ヒジャブを身につけている女の子のために、モデルの世界で道を作ってくれている。イルハン・オマルはソマリア出身の難民で、初のアメリカ合衆国下院議員。わたしは、ボクサーとしてソマリア代表になると決心した時、この国の見られ方を変える手助けをしたかったの。わたしたちの国は、戦争でぼろぼろになってしまっただけの国じゃない。しっかりした、いい国なんだって。わたしたちを憐れまないでほしい。わたしたちは本当に素晴らしいことをしているんだから。

 わたしは、アフリカの新しい世代の女の子たちに影響を与えられたらすごく嬉しい。――彼女たちのような背景を持つ人たちが、やればできるということを見せたいの。わたしにできるんだから、みんなできるよ。スポーツだけじゃなくて、他のことでもいい。大きな夢を持って、家事だけをさせられる誰かの奥さんとして生きるよりももっと大きな存在になれる。そういうことを彼女たちにわかってほしいだけなんだ。それを手助けできると思うと、世界で一番幸せな気分になる。

 でも、安全な住まいや十分な食料がなければ、誰も何もできない。だから、思いやりはとても大切だわ。わたしたち家族をケニアで救援してくれた慈善団体やユニセフのようなNGOがなかったら、――そして、わたしたちに手を差し伸べてくれたイギリスの愛がなかったら――わたしは今日ここにいない。生きてさえいなかったと思う。

 今、ここロンドンにいて、お祈りや断食をしながら、心から感謝しているわ。そして毎年、一年に一度、ラマダンとは何か、思い浮かべる。それは家族であり、調和であり、つながりでもある。

 そして、美しいものだと、わたしは思っているの。

FEATURED STORIES