スティングと呼ばれる男

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

ヘリコプターからぶら下がっている。

上空100フィートで、ロープとハーネスで固定されている。1998年3月のことだ。nWo vs. WCW時代最高潮の時期。俺は、“クロウ”スティングのフェイスペイントをしている。普段なら、会場の垂木で待機していて、出番を待っている。一言も発さない。そしてショーのクライマックスを迎え、天井から一気に降下し、俺様の黒バットでバッドガイどもにきっちり挨拶させてもらう。

でも、今回ばかりは勝手が違う。今回の興行は、パナマビーチでのスプリングブレーク特別版ナイトロで、垂木なんてない。屋根もない。スプリングブレークの狂騒の真っ只中、屋外での興行だった。これでは、この夜はスティングが天から降臨し、いつものようにnWoを駆逐するチャンスはない。そうだろ?

スキアボーネも、ビショッフも、ホーガンも、俺は現れないと言っていた。

マイクを手に持ち、ファンを挑発していた。「よう、ブラザー。今夜、スティングは来ない」とね。

その時だった。リングの上空でヘリコプターが旋回し、強風が吹き荒れ、全員の髪の毛が大きく乱れ始めた。ビショフはリングから吹き飛ばされ、1万人の観客が一斉に上空を見上げた。

鳥か。飛行機か。

いや、スティングだ!

あの時のフィーリング、そして、あのサウンドは生涯忘れない。ヘリコプターが高度を下げて、俺もゆっくりとリングに向かって降下し始めた。ホーガンとマッチョマンはピーナッツほどのサイズにしか見えなかった。2人は、信じられないという表情で、上空を指で差していた。そしてファンの歓声が沸き上がり、ヘリのブレードスラップ音が空気を叩く。俺はその中間にいて、うるさくて何も考えられなかった。

キャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!

現実世界でスーパーヒーローになった気分だった。マーベル作品、キャプテン・アメリカの映画版だって、スタント俳優を使う。CGIも使う。気が狂ったようなライブオーディエンスなんていない。でも、俺は実際にマントを羽織り、美味しいところを持っていった。

金も、地位も、権力だってあった。家では愛する家族が帰りを待ってくれていた。この世の誰もが欲しがる物を全て手にしていた。でも現実は違った。俺は完全に、どうしようもないくらい惨めだった。魂の抜け殻状態で心を病んでしまう手前にいた。依存症だった。1日のうち、唯一シラフなのは仕事の時だけ。それ以外の20時間あまりは、痛み止め、筋弛緩薬、酒を身体に入れるのが習慣だった。このサイクルが終わることなどない。死に至るのも時間の問題だった。それは自分でも理解していた。けれど、当時は肉体も心も相当オピオイドに依存してしまっていた。薬を止めることなど考えられなかった。

お前は依存症だ。嘘つきだ。どうして薬を止められない? どうして空っぽだと思うんだ?

スティング

スプリングブレークナイトロが終わるとホテルに戻り、みんなとビールで乾杯しながら視聴率云々について語り、自分たちの仕事を自画自賛し合った。そして、一人で自分の部屋に戻った。眠れなくて、寝返りを打っていた。完全に塞ぎ込んでしまって孤独を感じていた。空虚で、絶望を感じていた。

午前2時か3時になって、洗面所の鏡に映る自分の顔をジッと見つめていた。そして、こう思った....

お前は依存症だ。嘘つきだ。どうして薬を止められない? どうして空っぽだと思うんだ?

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

なぜだ? どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして?????

神様、そこにいるのかわからないけれど … 俺には助けが必要だ。

死にたくない。

お願いだ。どうか助けてくれ。



こんな人生になるはずじゃなかった。22歳まで、プロレスがどういうものなのか見当もつかなかった。どういうわけか、地元のテレビでは放送していなかった。俺は、ボディビル全盛の80年代前半に大人になった。アーノルド・シュワルツェネッガー、鋼鉄の男 ''Pumping Iron''、ベニスビーチのゴールドジムなどの時代さ。高校を卒業した後、俺はボディビルダーになろうとしていた。なんというか、明確な目標がなかったんだ。84年頃には、ハリウッドのバーで用心棒をしていた。最終的には、サンフェルナンド・バレーにあった、ゴールドジム・ベニスビーチ姉妹店を任されるようになった。

同じ時代を経験していない人に、アノ時代を説明するのはほぼ不可能だ。ケールスムージーなんて飲んでいなかったからね。それじゃぁ、こういう表現はどうだろう。男たちはタバコを吸いに駐車場に行き、また戻って270キロのウェイトでスクワットしていた。鉄のシャフトが半分に折れ曲がりそうな重量で、ジム中が大騒ぎだった。俺はというと、受付で仕事をしていた。ある日、リック・バスマンが大柄な3人の男を連れてやって来た。リックは、ジムにポスターを貼っても良いか俺に尋ねた。そのポスターには “レスラー募集中” と書かれてあった。

俺は、「レスラー? オリンピック競技の?」と彼に聞いた。

すると彼は「違う。プロレスさ。俺は、4人のモンスターで一つのチームを作っているんだ。コイツらを鍛えて、WWFに送り込みたい」と言った。

俺は「WWFって?」と尋ねた。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

彼は俺が冗談を言っているように思ったらしい。そして「ハルクを知っているだろ」と、彼。

俺は「ハルク? ウチでたまにワークアウトしている、大柄の金髪男のこと?」と尋ねた。

彼は、俺がからかっていると思ったみたいだけれど、皆目見当もつかなかった。彼には、ポスターを貼ってもらっても問題ないと伝えた。けれど、それから数週間が経っても彼の電話は鳴らなかった。彼は4人目を探していた。再度ジムにやって来て「君は興味があるか?」と聞いてきた。

俺は「無理だよ」と答えた。

それでも彼は諦めなかった。最終的には、俺が折れた。そして、今はもうないロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナで行われたWWFのショーに、他の3人と一緒に俺を連れて行くことになった。

彼は「一緒に来てくれればわかる」とだけ言った。

OK、良いさ。ビールでも飲みながら楽しむよ。その時は、さほど考えていなかった。それ以前、友人からの薦めもあって、ハリウッドで何度かオーディションを受けたことがあった。ちょっとした映画の間抜けなシーンに出演するちょい役だったけれど、最終候補の2人に残ったこともあった。残念ながら、落ちたけれどね。映画のプロデューサーからは、見た目が役に適していないと言われた。それで違う候補を採用したんだ(その映画は “ナーズの復讐”。間抜けなシーンは、オーガの場面だった)。

話を戻そう。俺たちはWWFのショーに向かった。リックからは「これを着ろ」と言われた。

彼が手に持っていたのは、ネオンカラーのスパッツ、それからゴールドジムのマッスルシャツ数枚。きっと彼は、客席で目立つようにして、ビンスらタレントマネージメントにアピールしたいのだろうな、と思う。俺たちは、お互いに顔を見合わせて、仕方がないという感じだった。そうして、大柄の4人のボディビルダーが、WWFのショーの客席でコーラを飲みながら、ポップコーンを食っていた。ネオンカラーのスパッツを履いていたから、4人で何かのマークのように見えたかもしれない。笑ってもらって構わない。だが、それから俺の人生は一変した。

アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、アイアン・シーク、ビッグ・ジョン・スタッド。観客の声援を聞いた瞬間、マジックを見ているような感覚に陥った。アメフトの試合での声援とも違った。観客は我を忘れて夢中になっていた。ショーの前半が終わって、俺はリックの方を向いて「理解したよ」と言った。

彼は「レスラーになりたいか?」と聞いてきた。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

俺は「レスラーになりたい。どうすればいい?」と答えた。

それからというもの、金がなくて、痛くて、愛車の83年サンダーバードで10万マイルも走行する生活になった。その当時のレスリングは、縄張り争いが全盛だった。いまだに小規模な団体は縄張り争いをしているくらいだ。その時代は、各地域を仕切っていたボスに、自分を売り込むテープを送り届ける手段を見つけないといけなかった。俺たちは新人の中でも下っ端で、テープすら作っていなかったから、写真だけ郵送した。大抵はモールで撮影した宣材用の顔写真を送るのだろうけれど、俺たちは身体にオイルを塗って、筋肉をアピールするポーズで撮影した。

俺たちはプロレスのトレーニングすら受けたことがなかった。それでリックは、ラケットボールのジムでやっていたレスリングスクールに俺たちを送り込み、レッド・バスチェンからロープワークを教わった。数週間も投げ飛ばされる日々で、一番大事な教訓(そう、ロープは痛い)を得た。一緒に教わっていた仲間の一人が消えた。気づいたらいなくなってた。それから二度と連絡が来ることはなかった。

俺と一緒にいつも通っていた男は、ジョージア州アトランタ出身の巨大なモンスターで、名前はジム・ヘルウィグ。190cm、127kgの大男。筋骨隆々だった。リックからスカウトされた当時、彼はカイロプラクターか何かになるための勉強をしていた。控えめに言っても、彼は変わっていた。こんなことを言ったら彼もブチギレるだろうけれど、いつも犬を連れていた。大きくて、毛がふわふわしたチャウチャウで、名前はブルーベリー。狂った犬だったけれど、ジムは溺愛していた。

ジムには、練習場に着いてから1分ほどやるルーティンがあった。すぐに首筋の血管が浮き出て、アドレナリン全開で真っ赤になって、目も見開いて、まるで発狂寸前の状態だった。かと思えば、愛犬と遊んでいるとすぐに赤ちゃん言葉になっていたよ。

「あらあら、どうちたの! 今日は元気でちゅか、ベリーちゃん? おやつが欲ちいかな? おやつ欲ちいでちゅか? 」

(それから数年後、ジムはアルティメット・ウォリアーになる)

当時、ジムはウチに居候していた。残念ながら、彼とブルーベリーがね。俺たちは、売り込み用の写真をあらゆる団体に送った。たしか、日本の団体にも送った気がする。ただ、返信は来なかった。そしてようやく、ある日、電話が鳴った。出てみると、ジェリー・ジャレットだった。彼は、メンフィスにあったCWAという団体のボスだった。受話器を手で覆って、ジムに小声で「ジム!! おいジム!! ジェリー・ジャレットからだ!!!」と伝えた。

ジムはすぐに違う部屋に移動して、俺たちの会話を聞くために受話器を取った。

ジェリーは「君たちの写真を受け取った。気に入ったよ。ただ、問題がある」と言った。

俺は「承知しました。どんな問題でしょう?」と尋ねた。

「写真には4人が写っているが、ウチで使えるのは2人だけだ」 とジェリー。

俺は「わかりました...誰と誰でしょう?」と聞いた。

受話器を通じて、ジムが息を呑む音が聞こえた。長い沈黙があった。俺たちの人生がかかっていた。

ジェリーは「そうだな。左側の2人だ」と言った。

(俺とジムだ)

俺は「今、その2人と話をしていますよ。これからどうすれば?」と聞いた。

「車を持っているか?」

「はい、持っています」

「グッドだ。君たちには車が必要になるからな」

翌日、俺とジムは車に乗り込み、東を目指した。プロレスファンからは、普段のジムがどういう人物だったかをよく聞かれる。その時は、こう答えるようにしている。

「ジム・ヘルウィグは、アルティメット・ウォリアーではなかった」

「アルティメット・ウォリアーこそ、ジム・ヘルウィグだった」とね。

それから1年間、俺たちは南部の小さな町という町を移動して、ほぼ毎日試合をした。テレビで放送される興行だったら、ギャラは25ドル。テレビが付かない場合は、いくらもらえるかなんてわかりはしない。5ドルもらえれば良い方だった。

シャワーがない環境もあった。ドレッシングルームも、身体を洗う洗面台すらないなんてこともあった。おっさんが消毒液の入ったバケツを持って来るだけで、俺たちは鼻をつまんで、ブドウ球菌感染症にならないことを祈るだけだった。テキサスの牛舎で試合があった時には、肥料を踏みながらリングに向かうなんてこともあった。5、6試合が終わると、リングのマットは茶色くなっていたよ。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

休暇時期には、一晩だけで2興行もあって、俺たちの間では“ダブルショット”と呼んでいた。クリスマスイブ、ニューイヤーズイブ、イースターの日曜日。いつ仕事になっても問題なかった。食べていかないといけなかったから。

認めたくはないが、俺もジムも本当に金がない時期があった。ジムと俺は、スーパーに行って、出来立てのロティサリーチキンをデリカウンターから一つ取って、それをカートの前の方に置いた。通路を歩きながら買い物をしている素振りを見せつつ、一人が見張り役で、もう一人がこっそりチキンをつまむ。骨だけになったら、ボックスごとどこかに隠して、代金を支払わずに店を出た。決して誇れるような話ではない。でも、俺たちはそれだけ食うや食わずの状態だった。

ジムは、ワッフル・ハウスの話になると止まらなかったのを覚えている。アイツの夢は、ワッフル・ハウスで毎日食事ができるくらい稼ぐことだった。どこかを車で走っていた時、アイツは俺に、ワッフル・ハウスで食べられるハッシュドポテトについて教えてくれたよ。店特有のやり方で溶けたチーズと玉ねぎを乗せるかとかどうとか、話している間にどんどん興奮して、「『散らした、蒸した、覆った』だぜ、ブラザー。人生が変わる味だ」と言っていた。

俺はカリフォルニア生まれだから、アイツの言うことはまったく理解できない。

そして首筋に血管が浮き出るくらい興奮して、「スティーブ、今から最初に目にするワッフル・ハウスだ。これからの道すがらにある1軒目のワッフル・ハウスに入るぞ。『散らした、蒸した、覆った』のパワーを見せてやる」

当時は、愛車サンダーバードが俺たちにとって唯一寝泊まりできる場所だった。

今にして思えば、スティングとアルティメット・ウォリアーがオクラホマのワッフル・ハウスの駐車場で寝ていたなんてすごい絵面だ。でも当時の俺たちは、“フラッシュ”と“ジャスティス”。単発の仕事をこなしながら、夢を追いかけていた2人だった。金がなくて、腹を空かせていた。正直に言って、レスリングだって上手じゃなかった。この仕事は、顔にペイントをしたり、髪をブリーチすること以外にも大事な要素が多い。俺たちは、心理学、言葉の抑揚、ストーリー展開が試合を面白くするなんて理解できていなかった。

ある夜、つまらない試合をしてしまった後、ジェリー・ジャレットが俺のところに来て言われた台詞は忘れもしない。「あのな、お前たちとサヨナラしないといけない」。

俺は「サヨナラ? どういう意味だい?」と聞いた。

彼は「もうウチでは使わないってことだ。だが心配するな。俺はお前たちを気に入っている。使ってもらえるところを探してやる」と言った。

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彼の紹介で、俺たちはルイジアナのUWFで使ってもらえることになった。ただ、この団体は最低レベルで、実際ギャラも安かった。それから1年が経って、俺とジムは違う道を歩み始めた。その時期に、俺は “スティング” になった。

カリフォルニアの婚約者が会いに来てくれて、ルイジアナでの興行に向かう道中、I-10を走っていた時のことを覚えている。俺はとにかく疲れ果てていた。高速の出口が見え始めた。110キロのスピードで西に向かっていた時、「なぁ、この仕事はとんでもないよ。ギャラはクソだし、俺は何者でもない。このまま高速を走れば、2日でカリフォルニアの家に戻れるよ」と、俺は彼女に言った。

彼女も俺にそうしてもらいたいと思っていると考えていた。カリフォルニアガールだし、家族も同じ街にいる。俺たちは、半年後に結婚する予定だった。彼女はプロレスについて何も知らなかった。そしていまだに理解できていないけれど、彼女はこう言ったんだ。「私にはわからないけれど...あなたがリングに上がって、“Woo!” と叫ぶと、客席にいる多くの人たちも同じように “Woo!” と叫び返す姿を見たわ。特に子供たちがね。もう少しのところまで来ていると思うの。続けた方がいい」

110キロで走行していたあの時、もし彼女が何も言わなかったら、俺たちは高速を降りていなかった。俺はスティングにもなっていなかった。何も起こらなかったに違いない。

でも、彼女がそう言ってくれた。

それから数年は苦労や辛抱が続いたけれど、NWAに上がれるようになった。会場の収容人数もそれまでより多くて、ギャラも幾分かは安定するようになった。ブッカーが、ダスティ・ローデスだったことは絶対に忘れない。ある夜、カーテンの裏のゴリラ・ポジションに彼が立っていて、俺が入場しようとしていた時だった。「よう、スティンガーちゃん。話がある」と声をかけられた。

「なんだい、ダスティ?」

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「ベイビー、お前をネイチャー・ボーイにぶつけようと思っている。うん、そうだな。決めたぞ。明日の夜、お前とリックのシングルだ」

「待ってくれ。俺がフレアーと試合するの?」

「そうさ、ベイビー。準備しておけよ。顔にペイントして、派手なタイツとブーツを用意しておけ。そうすれば、すごい盛り上がる試合になるさ」

当時、リック・フレアーは王様のような存在だった。彼のプロモ撮影の現場にいたことがあって、彼はダイヤモンド入りベゼルのロレックスを身につけ、ワニ皮の靴を履いていた。そして首筋の血管を浮立たせ、金髪を振り乱し、“リムジンライド”、“自家用ジェット”、“キス泥棒”、“キレキレの頭脳”、“ニクい存在”と言いまくっていた。あまりにも自信たっぷりで、「すげえな、この男は心から自分の言葉として言っているんだ」と思ったのを覚えている。

まるで本当のことのように感じられた。スイッチを切る瞬間なんてなくて、彼はその世界に生きていた。これこそ、このビジネスで学んだ最重要レッスンだ。マイクを持ったら、自分の言葉を信じこませないといけない。

ダスティがリックとの試合を組んでくれた時、人生に一度あるかどうかの大チャンスなのはわかっていた。俺たちの間には、すぐに素晴らしいケミストリーが生まれた。初対戦の試合は覚えているよ。俺がリングに立っていて、リックはフォー・ホースメンを引き連れて花道を歩いていた。全員タキシードで着飾って、何人ものレディーをはべらせていた。試合が始まって、最終的には誰かが俺の顔にシャンパンをぶっかけて終わった。完璧だった。観客は大盛り上がりだった。

88年にはクラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンで対戦して、45分も戦った。そこまで長い試合は初めてだったし、ケーブルテレビで放映されたのにCMも挟まなかった。俺たちの試合は、時間切れドローという結末だった。この試合は、放送電波を通じて自宅のリビングで見ていた視聴者に魔法をかけたかのようだった。なぜなら、この夜を境に、全てが変わったから。TBSで放送された俺たちの試合は、視聴率7.1を記録。当時にしてはとてつもない数字だった。ケーブルテレビの力によって、プロレスは地域ごとのものから国中に広まっていった。

ある日突然、スティングのように顔をペイントした子供たちがショーに来てくれるようになった。飛行機で移動するため、ピッツバーグ空港にいた時の体験は忘れない。反対方向からWWFのショーに向かうアンドレ・ザ・ジャイアントが歩いてきた。彼の方に向かって歩いていて、ちょうどすれ違う瞬間に「やぁ、アンドレ!」と声をかけた。

彼が俺のことなんて知っているわけがないと思っていた。馬鹿なことをやったと思ったよ。けれど、アンドレは俺の方を見下ろして、笑顔で「よう、スティング! 調子はどうだい、ボス?」と返してくれた。

アンドレから「ボス」と呼ばれたら、それは彼に気に入られているという意味なのを伝え聞いていた。俺たちは握手をしただけだった。彼も俺も、それぞれの行き先に向かった。それでも、俺の心に一生残る瞬間だ。ようやく結果を残せたと感じたよ。3年前は、客席で青いスパッツを履いてアンドレの試合を見ていた。それが今では、彼に「ボス」と呼ばれている。信じられなかった。

振り返ると、あの瞬間がジェットコースターのような10年間の始まりだった。たった一夜にして名声を得た気がすることもある。遠征ばかりの生活で、飛行機での移動を繰り返し、年間300日以上も働く...これがどういうことなのかはわかってもらえないだろう。ソーシャルメディアが登場する前の当時のプロレスは、バブル期だった。

90年代の頭、WCWの関係者から電話があって、「やぁ、スティング。スティングが君に会いたがっているよ」と言われたのを覚えている。

俺は「なんだって?」と聞き返した。

「彼がアトランタでライブをやるから、君に会いたいそうだ。行ってくれるか?」

「スティングって、まさかポリスの? もちろんだ」

それで彼のコンサートに出かけて、バックステージでスティングに会った。彼はすぐに俺のところに来て、ナイスなブリティッシュアクセントで「うちには9歳の息子がいてね。息子の部屋に入ったら、壁にクールなポスターが貼ってあった。その時に思ったんだ。このスティングって、誰だ? 会わなくては、とね」と話しかけてくれた。

自分を取り巻く環境の変化の速さに、本当に驚いていた。nWoの侵攻が始まった90年代中盤までに、2人の息子を授かった。できるだけ息子をこのビジネスから遠ざけて、“当たり前” の生活をさせようとしていた。子供たちは友達の家に遊びに行くと、どうして友達の父親の人形がないのかを聞いたらしい。ウチの子供たちは、父親の顔をしたプロレスフィギュアが各家庭にあると思っていたらしい。

可能な限り家では、普通の父親でいるように努力したよ。遠征に行く前も、ギリギリまで家にいた。でも、家族への負担は非常に大きかった。俺はというと、なんとか父親とスティングを両立させようとしていた。けれど、96年くらいの時期は、眠れない日々が続いた。だいたい、1日の睡眠時間は4時間ほどだった。それくらいから自分を傷つけ始めた。仕事のため海外にも行かないといけない時期で、その時にこう思った。ちょっとした考えが、考え得る中で最悪の道に自分を誘った...鎮痛剤を飲めば眠れるかもしれない。そう思ったんだ。

当時、鎮痛剤はどこでも買えた。ソマ、バイコディン、ロータブ、筋弛緩薬、なんでもだ。キャンディを買うように手に入れることができた。飛行機内で服用すれば、痛みが取れて、気絶するように眠れる。なかには、別の目的のために服用するヤツもいた。俺はそんなものに頼っていなかった。でも、眠れなくて、あまりにも多くのことを考えるようになっていて...大したことではないじゃないか、と思ってしまった。

そしてホテルの部屋で鎮痛剤を手にして、2杯のビールで流し込んだ。すると、数ヶ月ぶりに赤ん坊のように眠れた。

鎮痛剤の怖さは、忍び寄ってくることだ。枕に頭を乗せるとリラックスできる。この瞬間に中毒性があるんだ。幸せな気持ちというより、安らかな気持ちと言えるかもしれない。自分だけは安全で、問題ないと思っていても、それはただの偽りでしかない。そう思わされてしまう。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

1錠の薬を1〜3杯のビールと一緒に飲む生活は習慣になってしまう。考えずにやるようになってしまう。それに気づく前の段階で、前の晩に薬を飲んだかどうかも覚えていないようになる。試合が終わって、ホテルのバーで仲間たちに「いやいや、今夜は大丈夫だ。今日は間をあける」と言う。

周りは、俺がおかしくなったと思って、笑い、そしてこう囁いてくる。「OK、スティンガー。それならそれで構わないさ。でも、必要なら言ってくれ」と。

眠りにつこうと思っても、脳のどこかに痒みがあるように感じてしまう。かきたくてもかけない。落ち着かない。じっとしていられなくなる。1時間の間に脳が1,500キロも歩いた錯覚に陥る。そして薬が欲しくなる。明日は必要ない。でも今夜は要る。薬のためなら誰かを殺しかねない。そして薬を受け取りに行く—その夜を乗り越えるためだけに。グラスに注いだ赤ワインを飲み、テレビをつける。映画を見ながらウトウトしてしまい、赤ん坊のように眠りに落ちる。

もう逃げられない。

信じてもらいたい。この行為で人がどれだけ病んでいくのかを、俺は痛いほど知っている。そうなってしまった例を数多く見てきた。床に倒れ、発作を起こした連中も見てきた。胸にパドルを当てられ—「離れて!!!!」—この治療で助かった連中も見てきた。友達の葬儀にも参列した。でも、1998年までは、鎮痛剤の服用を止めることは考えられなかった。心身両面に中毒性をもたらす行為は強力で、深刻で、きっと死に至るのもわかっていた。けれど、どうしようもできなかった。俺は...空っぽだったんだ。

ファンはずっと心配してくれていて、「目がおかしい。目のことだけでなんの話か自分でもわかっているはずだ」と声をかけてくれる。顔面のペイントなのか、それともnWo時代の大半で口をきかなかったからなのかはわからないけれど、ファンのみんなは、自分の目を見るだけで、心配してくれた。自分でも、当時の画像、特に赤と黒のペイントに変えた98年夏頃の画像を見ると、目を見るだけで、自暴自棄で、絶望を抱えていたのがわかる。これは演技でも、キャラクターでもなかった。自分自身を失っていたんだ。

ペイパービューでの大きな大会の前には、バックステージの洗面台で、これまでに5,000回はやってきたウォーペイントを施していたのを覚えている。俺の心のダークサイドを表現するために、黒のラインで仕上げる。そして鏡を見て、「諸君、ショータイムだ」と言う。

それが俺にとっての合図だった。スイッチを切り替え、スティングに化ける。出番がやって来て、ファンのために全てを捧げる。試合が終わって、カーテンの裏にたどり着くと....

鎮痛剤、筋弛緩薬、酒。

鎮痛剤、筋弛緩薬、酒。

鎮痛剤、筋弛緩薬、酒。

完全に意識を飛ばす。それだけが俺のゴールだった。痛みを感じず、何も考えなくて済む。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

周りからは12のステップについて話をされる。もしくは、イエスに頼るように言われる。俺はいつだって、「いいか、ジーザス・フリークを俺に近づけるな。そんな話は聞きたくない」と言っていた。

98年の夏の間中、俺は空っぽの殻に閉じこもっていた。生きたかった。でも、とことん絶望していた。出口なんて見えなかった。1998年8月のある日、どういうわけか体験できたんだ...奇跡ってやつを。俺にとって、最後の審判の瞬間と言う以外にどう説明すればいいかなんてわからない。

もう何年も、妻からは本当のことを話してもらいたいと何度も求められた。彼女も馬鹿じゃない。仕事でどういう状態になっていたかを理解していた。パーティーのことも、仲間と酒を飲んで大騒ぎしていたことも、薬のことも気づいていた。でも、俺は嘘をつくことが得意になっていた。その話題を出した彼女自身が罪の意識を感じるように誘導できていた。

遠征から帰って家にいたある日、妻が寝室に入ってきてドアを閉めた。子供たちに聞かれないように。そして「これまでも聞いて来たことだけれど、もう一度聞くわ。あなた、今までに...?」と聞かれた。

どうしてかわからないけれど、もう嘘はつけなかった。彼女の目を見て、全てを話した。妻は、床に崩れ落ち、激しく泣いた。話をすることもできず、立つこともできないでいた。俺が抱きかかえてベッドに座らせた。

言葉にできることなんてない。俺は、妻と子供たちを裏切った。完全に気が動転していた。クローゼットに駆け込み、両手両膝をついて、文字通り神に救いを求めた。

その日まで、俺は信仰について熱心ではなかった。教会には、兄弟、両親と何度か行っただけだった。それなのに、いわゆる“罪人の祈り”ってやつを唱えていた。神様に魔法の杖を振りかざしてもらって、俺をまともにしてもらいたかった。地獄から救い出して欲しかった。苦しみから守ってもらいたかった。でも、俺は誠実ではなかった。正しくなかった。

クローゼットの中でひざまづくまで、自分は間違っていた。その時になって、6つの単語から成る、聖書にある不朽のワード: “The Truth Will Set You Free”(真実はあなたを解放する)を心から理解できた。

もう誤魔化さなくてよかった。嘘をつく必要なんてなかった。俺の魂を救ってほしい。完全なる絶望から救ってほしい。心から神様にそう願った時、神のご加護を感じることができた。理解し難い、非常に神秘的な体験だった。これを奇跡と呼ぶ以外に、なんと説明していいのかわからない。

この時、俺の肉体はオピエートにかなり依存していた状態で、本来なら入院して、輸血を受けて、医療の力で完全にデトックスしてもらうべきだったと思う。けれど、俺は全てをキッパリ断った。嘘は言わない—本当に耐え難いほどに辛かった。でも、その日から全てを止めて、救い主であるイエス・キリストに命を預けた。

噂の類は全て耳に入っていた。本当だ。ファンの中には、俺がカルト集団に入信したなんて噂していた連中もいたよ。洗脳されたとも言われて、怪訝な顔で見られたこともあった。俺は何も気にしなかった。仲間たちは、ショーの後で俺を誘おうとしてきた—「来いよ、スティンガー!! 一度だけ!!」—俺は彼らを追い払い、「やらない。ただ、もし聖書について学びたかったら、俺の部屋に来るといい。牛乳とクッキーを用意してある」と伝えた。

24年前なら信じられない行動だ。それ以来、俺はシラフだ。 

どういうわけか、62歳になった今も、俺はこの素晴らしいビジネスに関われている。

いまだにウォーペイントを顔に施している。

今も、ショーの前は緊張して、落ち着かない。

大好きなことを続けられているんだ。

Taylor Baucom/The Players’ Tribune

リングシューズを履く時、自分が62歳という現実を実感させられることは多い。そして、あらゆる歯車が噛み合って、会場が揺れる瞬間、ジムとサンダーバードに乗り込んで東に向かい、「このクレージーな世界が俺たちに何をもたらしてくれるのだろう?」と考えていた22歳の頃のような感覚にもなる。

この仕事が最高な理由は、子供たちがテレビに出ている父親を見て、テーブルから飛び上がるほど大興奮してくれること。特に、娘のグレーシーがね。娘は、俺がシラフに戻ってから数年後に生まれた。だから、WCW時代の俺をまったく知らない。俺の仕事を理解し始めたのはAEWに加わってからで、YouTubeで俺の動画を見ている。ソーシャルメディアのおかげで、俺の昔の試合も目にして、プロレスにのめり込んでいる。試合が終わると、ずっと応援してくれているファンのように、いつも俺にメールをくれるんだ。

「パパ、彼をこてんぱんにしたね! ディスろうとしてきた相手をやっつけたんだよ! 最高!!!!」

AEWのおかげで、俺は自分自身、そして家族のため、良い形でキャリア最終章を迎えられている。俺に力があるのなら、ドレッシングルームで若い世代にとってちょっとした道標になりたい。彼らも望んでくれるのなら、そうしたい。説教するつもりなんてない。ただ、それなりに闇を見て来たから、次世代のレスラーにとっての光になれるのなら、喜んで力になりたい。

プロレスに熱心で、細部にまでこだわるタイプのCMパンクやダービー・アリンと仕事ができるのは、俺にとってプライスレスな経験。ダービーは、滅多にペイントを落としたがらない。たまにそのことについて空港で彼に忠告しているくらいだ。彼にとってこの仕事は、呼吸と同然なんだ。どちらかというと、リック、ジムらとの昔を思い起こさせてくれる存在は、パンクの方だ。俺がAEWに上がるようになった頃、彼がバックステージを訪ねてきた。勉強熱心なヤツで、俺の助言を求めていた。彼からこんなことを言われたのを覚えている。「申し訳ないけれど、これから毎日お邪魔するよ。聞きたいことがたくさんあるんだ!!!」

本当に感動したよ。昔なら、もしバックステージに62歳の老人がいたら、たいていは「おい、爺さんを追い出せ。アンタの時代は終わったんだよ、おじいちゃん」となっていた。

どういうわけか、今のレスラーのメンタリティは違うようだ。この団体で仕事をするようになった頃、何人かがバックステージを訪ねてくれて、満面の笑顔とともに携帯を見せてくれた。そこには、6歳か7歳の子供が、ハロウィーンの仮装でスティングに扮していた画像が映っていた。顔を黒と白でペイントして、トレンチコートを羽織って、ダークなしかめ面をしていた。ハロウィーンキャンディでパンパンの大きなバッグを持ってね。

彼らは「これ、俺なんです! ペイントは3日も落ちませんでしたよ!」と口を揃える。

でも最高なのは、アイザイア・ キャシディだ。約20年前にサインした、WCW時代の俺の写真を見せてくれた。当時の彼は5歳くらいだったはずで、俺の隣に立って、超がつくほど笑顔だった。

彼は「あなたのおかげで、俺はプロレスにのめり込んだんです」と言ってくれた。

言葉を失うくらい心が震えた。自分がやって来たことが、テレビを通じてブルックリンで育った子供に、ちょっとした魔法のような効果をもたらした。こういう瞬間は、生涯残る。ペイパービューの大会で試合をしたり、ベルトを獲得したり、大勢を魅了できるのも素晴らしいことだけれど、心に残るのは、どこかで声をかけられて、俺の目を見て「おかしなことのように聞こえるかもしれませんが、以前からあなたのことを知っている気がするんです。僕は、幼い頃にいじめられていました。でも、あなたのおかげで中学時代を乗り越えられました」と言ってもらえた時だ。

もしくは「おかしなことのように聞こえるかもしれませんが、昔は父と一緒に、月曜の夜にあなたをテレビでお見かけしていました。父との繋がりを唯一感じられたのが、プロレスでした」という話かもしれない。

多くの人が俺の前に現れて、目に涙をためて「おかしなことのように聞こえるでしょうが...」と話しかけてくれる。

でも、それはおかしなことなんかじゃない。

もしプロレスに特別な力があるとすれば、こういうことなんだ。リックは正しい。全身全霊をかけて、ファンのために力を尽くさないといけない。

なぜなら、それが10倍になって自分に返ってくるから。

どん底にいた時代も、カーテンを開ければ大きな歓声、魔法のような力、繋がりを感じられた。

そこに偽りなんてない。このビジネス、人生に、フェイクなんて存在しない。

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